カテゴリー「今までのこと」の36件の記事

一貫性と棚上げ

会社という組織が『一貫している』というのは、とても大切だと思う。お客様にとってはもちろん、社員にとっても、会社の経営陣だけでなく上司・先輩達の話すことが一貫していないと、信じて行動することが出来なくなる。

自社だけでなく仕事でお邪魔する会社でも、そんな一貫性のなさを目にすることがある。例えば、挨拶ひとつでも「朝は明るく挨拶をしよう」とか「お客様を見たら元気に挨拶しよう」とか言いながら、経営者自身やリーダー達がそれを怠っている、という事が目立つ。
それが大事なら、誰よりも真っ先に経営者やリーダーがやって見せるからこそ、その重要性が周りに伝わるものだ。言葉と行動が一貫しているから伝わるのだ。
号令をかけるだけで、リーダー自身が率先して言動に移さないことには、只の<お題目>になってしまう。そうなると、「明るく・元気に挨拶する」効用や価値は貶められてしまう。全社を挙げて取り組むほどの重要さではなく、一部の部下や末端社員がすればいいだけの作業になってしまう。

92年の暮れ、僕は一年ぶりに営業所に所長として戻った。
前任の営業所長がきて、営業所の主任以上に目標未達成額を会社に立て替える件が話されたことがある。確か、僕も同席して話をした筈だ。部下や後輩にそれを強いる以上、僕は前回同様、もう退けないことを覚悟した。
なんとしても会社を立て直して、末端ユーザーの方、販売店の方に迷惑をかけず、社員も気持ちよく働ける組織にしなければならない。今日の出来事を「あの時は必死に頑張ったよなぁ~」と笑い飛ばせる日を迎えなければならない。

この前任の営業所長はそれから程なくして、会社を辞めた。給与の遅配が続いている会社だから退職者が出るのは珍しい出来事じゃない。彼の生活の破綻状態も知っていたので、それも仕方ないと思った。

ただ、これには後日談がある。

それから数年後に彼と一緒に呑みに行ったことがある。当然、当時のことにも話が及んだ。
会社を辞めてから暫くして、営業所の或る主任と話したことがあったそうだ。その時に彼はその元部下に対して「社員に金を肩代わりさせるような会社、おかしいよ」と話したというのだ。
これには驚いた。元部下にそれを強いたのは、他でもなく辞職した彼自身だったではないか。

確かに、社員が会社に金を入れるなんておかしい。
でも、彼がそれを口にするなら、「あの時の俺が間違っていた。申し訳ない。」と土下座でもするなら理解できる。でも、それを他人事みたいに、しれっと元部下に話し、数年の時間を経たとは言え、当たり前のように僕にも話せる神経に面食らった。

彼はただ、会社から言われるままに部下を説得しただけかも知れない。嘘っぱちだったんだろう、彼にとっては。

そんなお気楽に、人を導いたり、決断を迫って良いのか?
人に強いておきながら自分は放り出して、立場が変わったら、あっさりと前言を覆す。

「あの時は自分が大臣をしていたので、それには触れられませんでした」みたいな、立場に責任の矛先を向けて、自分を棚上げしていた政治家もいた。
プライドのない人間の発言やその責任感はこうも軽いかと思う。

僕にも決して、偉そうに彼を裁く権利はない。同じ穴のムジナだ。
僕の罪も軽くはないし、彼らを結果的に傷つけたことは紛れもない事実だ。

「一寸の虫にも五分の魂」 せめてのその罪を背負って行かなければいけない。それが僕の義務だし、責任だと思う。

仕事だからとか、役割だからと、それを「逃げ」にしては人には責任も何もなくなってしまうと思う。人間関係は薄っぺらで表面的なものになってしまう。上司と部下の関係だけでなく、取引関係でも、友人関係でも、誰もそんな軽々しいものを求めていない筈だ。
自分という人間が、公私の別なく、何処を切っても同じ「金太郎飴」のようで在りたいと思う。

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貧すれば鈍する

九州で半年、そして東京に戻ってから半年。僕は1年ぶりに所長として営業所に戻ることになった。会社の状況が悪い時でも、悪いことをする奴はいるものだ。僕が営業所を空けている間、取引先からの集金をネコババしていた奴がいた。

営業所にいた時は、売上額、集金額、売り掛け金額など全て僕が管理していた。一年前、九州に行くことが決まって、部下の一人にそれを任せて出稼ぎに出たのだ。その彼が自分で集金したお金を使い込んでいた。

聞くところによれば、世間の営業会社でもこの手の使い込みや横領は結構あるらしい。ニュースで報道されるほどのスケールや金額じゃないだけで珍しくないそうだ。

僕は当然、腹を立てた。まして、僕が九州に行っている間にも一度、同じ事をして、発覚していたという。同僚や後輩も同じように苦労している時に、自分だけズルして楽しようとした彼が許せないと思った。
そんな一度ネコババした奴に、そのまま金の管理を任せてチェックもろくに出来ていなかった会社にも腹が立った。少しでもお金が必要な筈の会社が何をやってるんだと僕のムカつきは激しくなるばかりだった。

一度目は諭して、上層部だけで誰にも知らせないままにしたらしい。今回は二度目とあって、先ずは営業部係長以上を集めて報告をし、本人からも謝罪をさせた。
その席で僕は耳を疑った。専務と営業部次長が「今後も彼には頑張って働いて欲しい」と言ったからだ。「もう二度とやらないで、以前と同様に頑張れよ」という者までいた。
僕の腹は煮えくり返った。

営業力もあって、本来は頑張り屋の彼だから、不正さえしなければ、会社に利益をもたらすと考えたのだろう。

『貧すれば鈍する』だ。情けない。

「俺は一緒に働きたくないです。」 と、僕は言った。
「彼を信頼することはできませんから。」

みんなが数千円、数万円の売上に血眼になっているのに。
主任以上のみんなが、給料遅配でギリギリの生活を余儀なくされているのに。

仮に後輩達がこの事実を知ったとしたら、僕は彼らに何も言えない。みんながツライ思いをしている時に、「自分だけ良ければ」と不正を働いた奴のことを、許してやってくれ!なんて言えない。言いたくない。言っちゃいけない。

そんな事を僕は言った。

「俺も嫌です」
彼が入社した時、営業所で共に新人賞を争った同期の者からも声が上がった。

僕の彼への発言を「冷た過ぎる」と言った者もいた。そうかも知れない。
確かに僕は、何か許せないことがあると、関係をバッサリ切り捨てるところがある。

情状を酌量すれば、彼も金が無くて辛かったのは僕でもわかる。彼が<一人きり>だったら僕も三度目のチャンスを考えたかも知れない。
でも、彼は<リーダー>だった。後輩達の必死になっている顔に、彼を慕っている部下達の顔に、陰で唾するようなことを、彼はしてしまったのだ。一度ならず二度までも。

前にも書いたように、僕にとっては、部下や後輩が「この会社に入って」「この営業所に配属になって」幸せだと思える場所と機会を創るのが命題だ。
だから、それを僕は許す気にはならなかった。しばらく離れていたとは言え、直属の部下である彼を許すこともしたくなかった。

そして、彼は退職することになった。

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再びの東京。更なる悪化。

半年間の九州生活から東京に戻ったのは入社6年目の92年5月。
前年、前々年と50数名の新卒採用していた会社も、業績の悪化もあり大規模な採用をしなかった。とはいえ、それでも10数名の新人を入社させたんだが。

僕はそのまま営業所には戻らず、九州出稼ぎチームで編成された部署で新たな新規開拓を行うことになった。毎日飛び込みで開拓をするのも久しぶりだった。

僕が入社した頃の新規開拓は、卸し先である美容室が目に止まれば、まさに手当たり次第に飛び込んで、話をまとめて、その場で納品する方法だった。新規開拓に出たからには、必ず成果を上げなければいけないので、その場で納品する・しないを決められる「決裁者がいる」ことが重要だった。
現在でもそうだが、美容室の多くは個人営業店だ。卸していた製品もフォロー体制も(少なくとも)悪くはなかったので、その場で納品決定を貰いやすい個人店・小規模店との取引がふえてしまう。その結果、言葉は悪いが、特に意欲的でもなく細々と一人で営業しているようなサロンも取引先には多かった。

サロン経営の一環として「販売」を考え、意欲的な取引先を開拓しよう!というのが、今回の開拓の目的だった。
対象サロンが営業している8時、9時までは新規開拓に動き、それ以降の営業時間終了後は新しい取引店で経営者やスタッフに製品講習をした。相変わらず、まるでどっかのコンビニの名前みたいだけど、朝から夜中まで営業している会社だった。

それでも会社の業績は好転できず、バブル期の大規模新卒採用やら土地購入の支払いや人件費、維持費のメドもつかず、自転車操業と給与の遅延を続けていた。

やり続けていることが報われないというのはツライ。
やり続けてるのに益々、環境が悪化するのはもっとツライ。

そして、またしても以前同様、目標に満たない分は社員が自分のお金で負担するって話になった。

今回ばかりは僕も立て替える気持ちにならなかった。給料遅延の身では、カードローンやサラ金で借りることになるのだからリスクは高い。オマケにその場しのぎでしかない方法だし、それで解決できると思えなかった。
直のリーダーである次長から、僕とペアの女性社員に話があった時も、今回はやらないと断り続けた。僕自身だけでなく、ペアの彼女も守らなきゃいけないと思った。「守る」なんて言葉にすると気恥ずかしいけど、彼女にそれをやらせる訳にはいかないと思った。前回とは違って、今回ばかりは返ってくる当てがない金だ。

次長である彼は「会社が資金繰りに困ってるからじゃない。責任の果たし方として言ってるんだ。目標達成すればその金は返すんだ。それを負えないという事は、『目標達成できない』ってことか?お前はそんな仕事をしているのか?」を、只々繰り返した。

会社の状況も考えてることも分かっている僕に、彼は事実を押し隠して説得しようとしていた。僕が投げかける言葉に答えることも出来ず、同じ言葉を繰り返すだけの彼にウンザリした。

そんな不毛の時間が続いて、互いに押し黙っていた時、不意にペアの彼女が「私、やっても良いです」と言った。

「 !!!! ・ ・ ・ 」

僕は、正直なところ、思い切りそこで脱力してしまった。
背中のつっかえ棒が外れてしまった。

「じゃあ、俺もやります・・・」

後で彼女の真意を聞いた。今までお金を会社にプールしたことも無かったし、他の社員もやっている中でそう決断したらしい。彼女なりに自分自身を測りたい気持ちもあったのかも知れない。
ペアの彼女とは九州から一緒に組んでやっていた。後輩としても同僚としても大切に思っていたので、今回のことは何とか回避したかった。でもそれすら止めることが出来なかった。無力感にも襲われたが、「こんちくしょー」パワーを振り絞るしかなかった。

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九州からの撤退

九州での営業活動は期待していた程、稼ぐことが出来なかった。
美容ディーラーの多くは取引先に言われるままに製品を卸し、意欲的とは言い難い会社が多い・・・と言うのは事前の知識として知っていた。知ってはいたが、「百聞は一見に如かず」の通りだった。

僕らは事前に美容ディーラーの社長に、製品を卸すだけでなく、営業マンと同行して、販売店の開拓を行うことを約束する。

同行の朝、営業マンと「行ってきまーす!」と出かけた一軒目が喫茶店cafeなのは当たり前。「もう仕事しましょうよ」と誘っても、暖簾に腕押し。ようやく取引店に行って、こちらが製品の紹介をしていても自分は待合の椅子で漫画を読んでる始末。

翌朝、二日目の同行をするために会社に出向いたら、社長から『売らないで下さい』といわれた。
注文をもらって、納品するだけ。。。その繰り返しをしている彼らは熱意をもって製品を紹介した経験がない。サラっと話してみて「そうねぇ・・・」なんて相手が考えたら、その時点で引き下がってしまう。何か不安要素があって踏み切れないだけなのに、その問題解決をしようという気持ちすらない。ただの<YES MAN>。

僕らは納品先を『絶対、開拓する!!』積りで臨んでいる。熱意と覚悟をもって本気でやっている。

その温度差が大き過ぎることに気づかされた。問屋といえば製品を卸すのが仕事なのに、販売することに否定的なのだ。「売れるもの」が欲しくて僕らと付き合うことを決めた筈なのに、これでは同行開拓する前に、美容ディーラー教育をしないと始まらない。

そんなレベルの美容ディーラーに幾つも出合った。
何十社もの美容ディーラーと話をしたけど、ヤル気をもって仕事していたのは3社くらいだった。ちゃんと取引先に意見が言える会社は、注文品の配達屋じゃなくて、役に立とうとしていた。
その内の1社は僕らの 営業所兼住居 の傍に会社があったので、一度、一緒に鍋パーティーをしたこともある。夜中近くまで飲んで騒いだので苦情が来たっけ。

<YES MAN>で思い出したけど、出稼ぎメンバーの女性社員が僕と九州で一緒に仕事をして『感動した!』と言っていた。ミーティング中に「それは出来ない」と僕が否定したことに驚いたのだと言っていた。特に九州の責任者をしていた次長の意見に<NO!>を言う場面など見たことが無かったそうだ。
否定発言に感動されるというのも妙な話だが。。。

以前も触れたけど僕らの会社はマイナス発言にひどく敏感だった。冷静な判断や客観的な観方であってもマイナス方向の意見を排除しようとする社風だった。
僕は元々、素直な性格でもないし、3年近くの営業所配属で<放し飼い>だったから、自分で納得できなければ反論もした。

彼女はマイナスを一切許さない本社でずっと過ごしていたので、それがちょっとした驚きだったらしい。

自分が貰うべき給料すら渡されず、出稼ぎプロジェクトも期待したような結果には遠く、ふと、自分の非力さを突きつけられるような日々の中で彼女の存在は大きかった。有り難かった。彼女へ手渡せるものが未だあるって、自分に期待できた。

91年11月に始まった九州での出稼ぎも縮小することが決まった。翌92年のゴールデンウィーク前、男性社員二人を残して、僕らは東京に戻ることになった。

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Tiger&Horse ・・・ ?

九州の生活が始まる前まで、僕は営業所の所長をしていた。六畳間をシェアしてた同僚も本社営業部のひとつの係を束ねていた。同僚の彼に比べて、3年間、営業所にいた僕は言わば「放し飼い」状態な訳で、かなり自由に仕事していたと思う。

九州出稼ぎ部隊の責任者は僕の1年先輩だった。彼は出世頭で営業部の次長をしていたが、それ迄、彼と仕事したことはなかった。
社内でも人気がある人だったが、正直なところ、僕は彼の何処がそんなに人気があるのかわからなかった。魅力がわからなかった。

一緒に仕事をするようになって気づいたのは、仕事はバリバリがんがんやる人だが、意外とヌケてる、ってこと。ちょっとした忘れ物なんかも多くて、<いじり甲斐がある>タイプだと気づいた。

ある時、出かける彼に向かって「次長、○○○と×××、持ちましたか?」と声を掛けた。
すると、彼は「わかってるよ!子供じゃないんだから!」と珍しく声を荒げた。

多分。。。というか、僕のことだからカラカイ半分で声を掛けたんだと思う。
だけど、まさか怒らせるとは思ってもいなくて、互いに笑って、ちょっと場が和むかな?くらいの予定だった。

実は、この経験がその後もズ──────────────っと彼に対して心を許せない僕を作った気がしてならない。

そして、
どうも解り合える気がしない。苦手だ。対等でなく、彼を立ててあげなければイケナイ。距離をおきたい。
そんな風に彼を捉えるようになった。

何故か、今も彼と一緒に仕事をしている。あれから17年の時が過ぎた。
この数ヶ月、ようやく僕の彼への抵抗感が少しずつ溶け出してきたと思える。

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車を買う・・・?!

会社の資金繰りのために九州に居を構えて2ヶ月
その間も当然のように給料は遅れていて、まるで小遣いをねだる子供のように、経理に電話をしては「取り敢えず生活費と、営業先に向かう高速代で○万円下さい」と申告する生活を送っていた。

冬期休暇前日に東京へ戻った僕達は「車を買う。 ということにしてくれ」と言われた。
からくりはこうだ。

カーディーラーに行って、車の見積もりをもらう。⇒それを元に信販会社から車購入の借り入れをする。⇒その金を(車を買わずにcoldsweats01)会社の資金として使う。

わはははは。よく考えるよね~。笑い事じゃないけど。

毎月の分割支払い額はもちろん、会社が出すという訳・・・だが、給料すら遅れている会社が、きちんと支払いできるかsign02というと確証なんてどこにもない。
それでも結局、クレジットが通らなかった何人かを除いて、殆どの社員がこの方法で金を融通した。

借金するための方便(嘘)でしかない「車の購入」なんだけれど、カーディーラーに行って見積書を貰うだけの車でも「僕はトヨタ車がいい」とか「俺はやっぱりHONDAだな」とか考えちゃうんだよね。おまけにちょっとワクワクしたりして。バカだよね~。

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合宿(?)生活

入社5年目、九州での生活が始まった。

僕ら『出稼ぎ部隊』も当初は、
問屋さんの開拓、同行しての卸販売サポート⇒次の地域へ移動⇒問屋さんの開拓・・・
と転々と場所を変えていく予定でした。

当時は直接、販売店に卸すのがメインでしたが、元々、「美容卸問屋」を通して商売をしていた会社だったので、会社の首脳陣は、「美容卸問屋」開拓することを楽観視していた。しかし、いざ動き出してみると、ことはそれほど簡単ではなかった。

そこで、もっと腰を落ち着けて関わらなければ!ということでホテル暮らしを切り上げて、アパートを借りることになりました。

松田聖子、チェッカーズ、長渕剛・・・福岡といえば、久留米市だ!ってことで、そこに部屋を見つけました。
エレベーター付き新築マンション、16畳のリビングのついた4LDKでした。
家賃は確か10万円。東京だったらワンルームしか借りられないような金額です。

出稼ぎ部隊は、僕ら4人の先発隊に始まって、最終的に10人になる予定でした。
そこで、リビングを事務所として使い、3部屋を二人ずつの相部屋にし、残りの北向きの1部屋を倉庫にしました。
女性4人は近くのアパートに1部屋を借りました。僅か8畳の部屋に4人・・・という、まるで不法滞在しているみたいな環境ですcoldsweats01

「同じ釜の飯を食う」という、文字通り一緒に食事を作って食べるという合宿生活でした。

そこを拠点にして、かなりの広範囲で営業をしていました。
広島の問屋さんと縁ができて、同行予定が入った時は、前日の仕事を終えたら現地に向かって、夜中にビジネスホテルにチェックインします。数日、営業マンと同行販売をしたら、終わった日にそのまま数百キロ、福岡県久留米市へと車で戻るような生活でした。

その間も、給料が出ない、遅れるのは当たり前みたいな状態でした。会社の資金繰りは相変わらず自転車操業状態でした。
その年末、冬季休暇前に全員で東京に戻りました。

「車を買う。 ということにしてくれ」

これが九州から帰り着いた僕らに言われたことでした。

ボーナスなどなく、給料も遅れて、自転車を操るのもままならない会社なのに、僕達が車を買う?
このつづきは、改めて。

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土地勘がない!!ことすら気づかなかった。

入社5年目の11月、土曜日の夜10時に東京世田谷の会社を出発。2台の車を3人で交代しながら運転して、九州は福岡県に向かった。
1200Kmの道のりを3人で走るので、一人当たりの走行距離は800Km程度なんだが、休み無く働いてた身体にはキツく、眠いドライブだった。

その時は1200Kmという距離も殆ど知らぬまま出掛けたので、朝、大阪に着いたときは「もう随分近くまで来たなぁ~」なんて思っていた。のん気に一旦高速道路を下りて、健康ランドでお風呂にまで入ったもんだから、疲れがどっと出て、その後のドライブの眠たいこと。
その時になって「なんだ!まだ半分じゃん!!」と気が付いた始末。

ようやく日曜の夕方に福岡は博多に到着。
しかし、ちょうど大相撲初日を迎えていた博多に空いているホテルの部屋はなく、電話ボックスで電話帳にのってる宿を片っ端からあたった。
やっと見つかった宿は民宿のような(古い言い方をすれば)連れ込み宿のような、小さくて、ちょっと汚れた宿だった。

翌日の月曜からは、車2台で二手に分かれて営業に出発。
インターネットも携帯電話もない時代だから、電話帳に載ってる『美容卸問屋』に片っ端から電話をして、アポを取ったり、訪問したり。

土地勘がない、というのは本当に恐いものです。
いや、恐いもの知らず、というのが正しいかな。

九州なんて、東京、神奈川、埼玉、千葉を合わせた位の大きさかな?と思っていたので、福岡と大分なんて「お隣り」くらいにしか考えていなかった。
何も考えず「大分県は大きな街っぽいからアポを取ってみよう」なんて軽い気持ちで電話をかけて、約束が取れたのは良いが、気づけば100Km近くも離れているという始末。
(当時はまだ高速道路も繋がってなくて、途中で切れていた。)

とにかく、そんなこんなで「出稼ぎ部隊」は始動した。
問屋に卸して、問屋の取引先に同行しながら納品して、九州から関東に向かって移動を続けてのホテル暮らし。予定は未定。すっかり、気分は「男はつらいよ」だった。風の向くまま・・・という訳にはいかないが、資金繰り目的だから「金が向くまま、気合のままよ」か。

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出稼ぎ部隊、出動!!

給料が遅れ始めた入社5年目
とはいっても、それ迄にも2度位はそんなことがあったかな。今となっては記憶が確かじゃないけど。

その年の11月、会社としては目先のお金が必要な事態になっていた。従来の販路から売上げるものとは違う・新しい販路での売上が必要になっていた。別のルートでお金を稼がなければいけない状況だ。
そして、その為に急遽『出稼ぎチーム』が編成された。僕もそのメンバーとして出稼ぎに行くことになった。

出稼ぎ・・・文字通り、営業所のない全国の地域に出かけて、そこのディーラー(卸販売業者)を開拓して、更にそこの営業マンと同行して末端の取引先開拓を行なうというものだ。

営業所長になって半年で、そこを離れるのは心残りでもあった。
前任の営業所長が「俺が本社営業部と掛け持ちで面倒看るよ」と言った。
正直言えば、僕がいなくても滞りなく営業所が回ると思われているようでガッカリもした。
随分、簡単そうに言ってくれるじゃん!とも思った。
僕が不在で、現状の売上を維持できるかどうか、やってみりゃいいじゃん!とも思った。
任せられる範囲が増えたとは言え、未だまだ目配りしてやることが必要だと思っていたから。

その一方で、僕がいないことで、彼らが「育つ」チャンスになるかもと考えたし、新しいメンバーと全国を稼いで廻るのも楽しそうだと思った。
また、1年半近く現場の第一線を離れてたので、改めて営業職としての自分を見てみたい想いもあった。

兎にも角にも、こんな経緯で『出稼ぎチーム』に参加することになった。
スタートは九州福岡県から・・・といことで11月初めの土曜日、1週間の仕事を終えた夜、先発隊の4人で出かけた。
現地で動き回る車両が必要だったので2台の車に分乗しての出発だった。
ただし・・・一人は免停中だったので、実質3人でローテーションを組んで2台の車を運転することになった。

免停中の後輩は「こんな時に運転することも出来ず、申し訳ないです」と車に乗り込んできたけれど、5分後には高イビキをかいて眠っていた。

なんとも間抜けな始まり方だった。。。ちゃんちゃん。

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「死力を尽くす」と言うけれど

1991年、新卒で入った会社の5年目。
確かこの年も50数名の新人が入社したと思う。僕が入社した当時は30名弱の既存社員と僕ら新卒20名の50人程度の会社だったけど200名を超える社員数になっていた。
今にしてみれば、会社は売れる仕組みが無いまま、「人海戦術」のみで押し切ろうとしていた。

時代のせいだけではないだろうが社長は、人員を増やして皆が死力を尽くせば実績を伸ばせると信じていたんだと思う。
「死力」・・・誇張でもなく、まさに文字通りの死力だ。
例えば、意地悪な神様から「この売上を達成しなければ君の大切な人を奪います」と言われた時にみせる頑張り。そんな「死力」だ。

そんな『ここぞ!』という時に出せる死力、頑張りは確かにとてつもないパワーを持っている。
でも、それを毎日、毎月、毎年続けるのには無理がある。・・・と、思う僕は甘いだろうか。

いずれにしても、「死力を尽くす」ような事態は『非常時』だからこそと思う。
毎日、毎月が非常事態だったら、それは既に『日常』なのだ。

「努力と根性」だけで朝から深夜まで働く毎日。営業マンを倍にしたところで売上が倍になる訳じゃない。人手が倍になって即、実績を倍に出来るのは、ちゃんとシステムが出来ているケースだけだ。いくら頑張っても、無策のままでは売上は伸びやしない。

「だったら、突っ走る社長を止めれば良いじゃないか」、そんな声が聞こえそうだ。
確かにその通り。そしてそれが出来なかった他の役員含め、既存社員の責任は大きい。

僕も今はそう思える。
本気で会社の、社員の、お客さんの、それぞれの明日を考えて、それこそ「死力」を尽くして知恵を絞ったら、何かが変わっただろう。

社風、、、つまり会社の文化っていうのは大きい。そして恐くもある。
会社では一切のマイナス発言、考え方はタブーだったのだ。

「出来ない」。
そう考えたら何も出来ない。これは多分、真理だと思う。

でも時には、冷静に、客観的に判断すること。出来ることと、出来ないことを見極めること。
そして、それによって「出来ない」という答えが導かれたなら、そこから目を逸らしてはいけないんだ。
それを見据えてこそ、「だったら何ができるか」と新しく考えることが出来る。それは決してマイナス思考ではない。

大きな展望や夢を掲げて、仕事をするのは尊い。大切だ。
ただ、それはやりたい事、成したい事に向けて単純に、がむしゃらに走ることじゃない筈だ。

僕達は、社長を説き伏せるだけの説得力も知恵も持っていなかったのだ。

僕にも「日常的に死力を尽くせる」という幻想があったのかも知れない。
もっと本気になれば、もっと自分を追い込めれば、人は常に限界の力を発揮し続けられる。そんな気持ちがあったような気がする。
「厳しい中で結果を出すからこそ価値がある」、そう教えられて、自分にも浸透していたと思う。

それが「暴走」だと充分に自覚できず、止めることが出来なかった。
それまでの社員数ですら、全社的には売上が足りないまま、より多くの社員を抱え、新卒を迎え、新しい年度が始まった。
そして、この年の初夏には係長以上の給料の遅延が始まった。遅配だけなら未だしも、一ヶ月遅れて、一月分だけ渡されるというように、給料が抜けたりし始めた。

~しかし、それはこれから起こることの幕開けにしか過ぎなかったのだ~

なんてナレーションが聞こえてきそうな段階でしかなかったけれどcoldsweats01

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最初の決断

1991年、新卒で入った会社の5年目の春。そして、新人が入ってくることもあり、人事異動が行なわれた。僕は営業所の所長になった。前任の所長は本社営業部に戻った。
言ってしまえば、前年は僕らの営業所の「独り勝ち」状態だったが、もちろん新しい一年は全社的な伸びが必要だ。前所長もテコ入れをして本社営業部を立て直さなければいけない。そこで前所長のことを分かっていて、一緒に頑張ってくれる営業社員を連れて行きたいという話が持ちかけられた。

営業所営業部の営業マンは当時4人。新人賞を獲得したAと、そのライバルのような存在のB、職人のようなC、細かいことを積み重ねるDだ。

新人賞を獲得したAは基本的にはほったらかしておいても良いタイプ。「やる!」というモチベーションも高く、失敗しても後を引かない。

Bは、実績こそAには及ばなかったがモチベーションは安定しているタイプ。他の社員を触発したりする影響力はAよりも大きく、明るい。

Cは真面目なコツコツタイプ。言葉も少なく、その見て分かるような実直さで仕事を進めるが、否定的な考え方に陥りやすい所がある。キッチリと行なうことに価値を置く反面、既成概念にとらわれると、もう一歩踏み込むことに躊躇うタイプ。

Dは素直にやってみるタイプ。独特の工夫をして仕事を進める。一方で、不安を覚えたりして心が揺れることが多い。

Aは大らかな反面、ちょっとヌケてる性格、Bはイケイケ!ドンドン♪だから、二人とも必要に応じて、相手先の状況や商談内容、フォローの取り方に目を配ってやれば良い。
ちょっと気が緩みそうならガツンimpactとキツイことを言っても、却って燃えるし、こちらの挑発に乗って結果を出せる。

それに比べるとCとDは、もっと目配りと配慮が必要になる。ガーッと突っ走っていくA・Bとの差異に意気が落ちたり、諦めを覚えたり、場合によっては「この仕事を続けてて良いのか」と退職の考えがよぎることもある。
実務的なところだけでなく、心の状態にも目を配る必要がある。事実に即して誉め、取った行動を叱り、時に焚きつけたり、なだめすかしたり、だ。
でも、決してひねくれてる訳じゃないし、むしろ素直な方だ。あれこれ考えてしまうのも普通だろう。

さて、誰を本社に行かせたら良い?
誰が本社に行くのが、本社、営業所にとって、そして、本人たちにとって良い?

営業所にとってみればAとBは稼ぎ頭だ。オマケにどちらも手がかからない。新しい一年の売上数字を考えると二人とも営業所に欲しい。

だが二人と、CかDの一人を残すと考えるとバランスが悪い。
脇目をふらずに実績を出す二人に囲まれて、C・Dのどちらかが引け目を感じそうだ。
組織としてのまとまりに欠ける気がする。

前年度の新人賞を獲得したAを本社に渡すことを僕は決めた。
Aは周りに左右されにくい。新しい場所で力を発揮するならBよりもAだろう。前所長も傍にいる。本社営業部に新しい空気を持ち込めるかも知れない。

新人も配属になり、新しい体制での一年が始まった。
時は1991年。後に「バブルがはじけた」と言われる年だ。

いよいよ・・・である。

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バブル景気を知ってますか?

「バブル景気」を知っていますか?
1986年後半から1991年辺りまでをそう呼ぶそうです。当時は「バブル」なんて言葉は当然無くて、後になって<はじけた>からこそ、その異常な好景気が「バブル」と名付けられた訳です。

僕が初めて新卒で会社に入ったのは1987年でした。バブルが始まって最初の新人ってことになります。
僕の小学校時代の知人女性は入社後、最初の夏のボーナスで50万貰ったそうです。誰でも知ってる大手広告代理店でしたから特別だとは思いますが、4月に入社して研修期間を過ごしている程度の3、4ヶ月でもらえる額ではないですよね。

もちろん(?)、僕の入社した会社はそんな事はなかったですcoldsweats01
それどころか、88年には(前にも書いたとおり)売上の足りない分を社員が補填する事も起きかねない状態でした。
入社4年目の90年、僕らの営業所は好調だったけれど係長以上の給料が遅れることも起き始めていた。ボーナスも出ないような始末だった。
だから、「バブルの頃の生活は凄かった」みたいなドラマや話を聞いても全然ピンと来ない。自分が社会人としてその時代にいた実感がまるで無い。

そんな会社でも時代に踊らされていて、社員寮と顧客向け研修センター予定地として土地を買ったりしていた。
或る日、社長の車がポルシェに変わってたり、フェラーリに乗り換えていたりした。
他に僕があの頃を思い出して、「バブルだったんだなぁ」と思うのは・・・、30,000円の美容液が飛ぶように売れていたことだろうか。
その位しか思い浮かべることができない。

今になってみると、せっかくあの時代に生きてたんだから、少しは『バブル』ってのを体験してみたかったって思うことがある。

あなたはバブル景気を知ってますか?

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社長賞をもらう

新卒で入った会社の4年目は僕にとっては「収穫」の時だったんだと思う。
営業所内の空気も明るく、ちょっとしたスポーツのゲームみたいに仕事を楽しめていた。緊張感と遊びが上手く混ざり合った感じだったな。
ま、確かにちょっと熱い体育会系のノリではあったけどね。

その年の新入社員が、夏だか秋の新人宿泊研修から帰ってきた時、そこで彼らが決めてきた目標があった。僕にその年の『社長賞』を獲らせるということだった。

嬉しかった。彼らが僕を担ぎ上げようとしてくれる想いはとても嬉しかった。
でも、それだけじゃない。僕が『社長賞』を獲得するってことは、彼ら全員が大きな成果を上げるってことを意味する。みんながヤル気だってのが何よりとても嬉しかった。

・・・なぁんて言うと綺麗事っぽく聞こえそうだけど、でもね、人のヤル気を馬鹿にしたり、どよ~んとした暗い雰囲気を経験してたから、本当にそう思えた。
やっぱり自分の身の回りの人達が楽しそうだったり、明るく笑ってたりするのって嬉しいし、幸せなんだよね。

僕自身も『社長賞』を獲る気持ち満々だった。ちょっと珍しいくらいに。
そして、みんなのお陰でその年の最後の打ち上げの席で、僕は『社長賞』を貰った。
舞台に上がって受賞の挨拶をしている時、営業所のみんなが笑顔で喜んでくれた光景を今も憶えている。

人はきっと、誰も一人では何かを起こせないんだよね。
あの頃、僕は彼らに自分自身をぶつけていた。僕なりに頑張った。それが彼らの力になった筈だという自負もある。
でも、あの年のひとつひとつ、どれもこれもが、あの時、あの場所を共にした一人ひとりの化学反応というか、、、あの時、あのメンバーだからこそ起ったことなんだよね。

あんな風に誰かの役に立ったり、元気付けられたり出来る僕になりたいと思う。そういう自分でありたいと思う。自分ひとりで実現できることじゃないとしてもね。

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ひとはひと~その2~

新卒で入った会社の4年目。この年は充分な成果が出たことも大きかったけれど、それ以上に僕の根っこになる「価値観」に影響を与えた一年だったと思う。

学生の頃まで嫌っていた「営業職」を「色んな人たちに沢山会える」と選び、
入社してからは「For MeよりもFor Youの方が潜在能力も発揮できる」と教えられ、
部長の「今すぐわかって貰えなくても、数年後には付き合って良かったと言って頂ける」想いと決意で仕事するという言葉に共感していた。

人と出会い、相手のことを考えて言動し、「その場限りでない」喜びを必ず受け取ってもらえる。そんな自分でありたいと思っていた。

しかし、取引先や飛込みで伺った店の人と話していると、以前書いたように『ひとはひと』と考えることが多かった。

それが変わり始めたのは、新設された営業所の成果が上がらず、営業所内の雰囲気も晴れないまま、4年目に新たなメンバーを迎えたこと。
そして、「『今度こそは会社の中で一番明るく・楽しく・仕事できる営業部にしてやる!』、配属になった社員に『この営業所でラッキーだ!』って言わせてやる!」って決めた時からだった思う。

世の中には色々な人がいて、タイプもそれぞれに違っている。
でも、どの人も「幸せになりたい」と思っている。
希望を持つのも、働くのも、新しい何かを始めるのも、人と繋がるのも、余暇を楽しむのも、、、みんな「幸せになりたい」から。

そんな「幸せになりたい」想いに、少しでも手を貸せたら良いなって思った。

沢山の人を幸せにしたいと思ったのでもなく、ただ、傍にいる人たちの何らかの力になれたら良いと思った。
営業所に加わった人たちが、「この会社に入社して良かった」「この営業所配属になって良かった」と納得できること。そのための『環境と機会』を創ろうと思った。

それぞれの夢や希望を抱いて入社してくる人達が、毎日、自分に「YES!!」と言えるようにしたいと思った。

それが僕の大きな「価値観」になった。
僕が自分自身に追及していく「存在価値」だと思った。

これがなかったら、彼らと正面から向かい合えなかったと思う。
彼らを叱ることも、檄を飛ばすことも出来なかったと思う。
そして多分、その後の数年を乗り切れなかっただろうと、今になって思う。

それは僕にとっての「大きな柱」で、背中を支える「つっかえ棒」でもあったんだ。

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「へなちょこ」だからこそ

新卒で入った会社の4年目。

僕もところどころで、営業マンとしてそれなりに結果も出したけど、あまり出来のよい営業マンではなかったな。飛びぬけた数字を叩き出したなんて経験はそれまでも数える程度しかなかったし、今となっては、覚えているのは新人3人でチーム賞を獲得した時のことくらいだ。

そんな訳で、僕は自分の営業力に今ひとつ自信を持てなかった。オマケに面倒くさがりでフットワークが悪かった。頭では判ってても、自分で実際に動くのを億劫に感じるタイプだった。

でも、そんな「へなちょこ」な自分だからこそ、この時は上手く営業所を運営することができたように思う。

以前に触れたけれど、この年、他の営業所や本社営業部と格段の差をつけて僕らの営業所は突っ走っていた。
そして、それが出来たのは各営業マンの個性や知恵を引き出せたからだと思う。

4年目を迎えた春、彼ら新人を迎えた僕は自分の取引先のほぼ全てを彼らに引き継いだ。営業マンとしては数件の取引先を持つだけで、それ以外の殆どを「営業管理」することで過ごしていた。
僕と同じ立場の本社や各営業所の係長達がプレイングマネージャーとして仕事していたのとは大きな違いだった。

外回りから帰ってきた営業マン一人ひとりと毎日話をする。その大事な目的はひとつだけ。

スッキリした気分で会社を出られること。

良い成果を上げられれば誰でも気持ちよく会社を後にできる。しかし、誰もが毎日、充分な成果を上げられるとは限らない。まして、彼らは営業一年生だ。思ったような結果が出なければ、気持ちも沈むし、憂鬱にもなるだろう。翌朝、目覚めても会社に行くのが辛いだろう。

僕自身、営業結果が悪いとそんな気分になったのだ。
大事な商談が決まらなければ、「今月はダメかも・・・」なんて思って、ヤル気が失せてしまうのだ。「へなちょこ」だったからね。

彼らにそんな思いを残さずに一日を終えて、明日を迎えさせる。
それが僕の仕事だった。

「今日はどうだった?」
「どんな話をした?」
「何が良くて上手く行った?」
「何が足りなくて失敗した?」
「どうやったら次は上手くやれそう?」

「じゃぁ、どうしようか?」

僕から彼らに毎日尋ねた言葉はせいぜい、その程度だ。

僕の強みは「彼には彼だけの良いアイディアがある」と思えたことだ。
経験がないと言うことは、それだけ既成概念に囚われずに済むってことだ。
だから、それに耳を傾けた。

経験が少なくて、彼らが思い至らない所があれば「じゃあ、もし先方が『今回は○○だから止めとく』って言ったらどうする?」と聞いた。
そうすると、彼らはまた、彼らなりに考える。最初のアイディアがちょっと進化する。
取引先に合わせた製品ポップを用意したり、企画を練り直したりする。
すると、精度が上がってくるのだ。

明日は出来る! そう思えてくる。

今日一日が上手く行かなくても、それを消化しておけばスッキリする。
そして、明日やることがハッキリすると、希望が湧いてくる。

そうなれば、後は黙ってても彼らは勝手にやってくれる。

人は誰でも「へなちょこ」になれる。
だから、僕の仕事は、彼らがその落とし穴にハマらないように気を配ってやることだった。

僕が「へなちょこ」だったからこそ、そこに陥りかけている奴の気持ちも解った。
僕が「へなちょこ」だったからこそ、新しい彼らのヤル気や個性を信じられた。

自分の中の弱いところ、既成概念に囚われるところ、先入観に左右されるところ、面倒くさがりなところ、諦めやすいところ・・・諸々の「へなちょこ」を、この時は活用することが出来た。

今になって、あの頃の自分と比較すると少々恥ずかしい。
あの頃ほど、ゆっくり、充分に誰かの考えや思いを聞けなくなってたのに思い当たった。
つい先回りして「それは~」って話し始める自分がいた。

心がけよう。

じゃないと、今度は「へなちょこ」程度じゃ済まないゾ。

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自分の言葉で

新卒で入った会社の4年目。

「新人が僕に対して何でも話せる環境を作る」のを一番大事なことと考えていたけれど、それともう一つ、心がけたのは「自分の言葉」で話すことだったと思う。

前回、触れたように、夏を迎える頃には本社や他の営業所よりも頭一つ飛び出して成果が上がっていた。そして秋になる頃には大きな差が開いていた。
他の営業部が目標達成できなくても、僕らは毎月、目標以上の成果を必ず出していた。

ひとつの営業所が達成しても、目標は全社で達成する必要があります。
調子よく結果を出している僕らの営業所に「目標以上の売上数字をやって欲しい」という新たな目標の追加が毎月のようにありました。

営業部長からの「全体の数字が足りないから、その分もやってくれ」という話をそのまま皆にする気にはならなかった。
営業所では、毎月20日前後にはその月の目標達成が見えていました。でも、彼らの誰一人、それを楽にこなしていた訳じゃない。余力があった訳じゃない。懸命に頑張って出した結果でした。
そこに毎回、上乗せで数字が与えられるのですから、「必要だからやれ」だけでは面白くないと思いました。
もっとワクワクできるような、更にもう一歩頑張りたくなるような動機づけをしたいと思いました。
言われたからやる、義務感や責任感だけじゃ先送りされるゴールを追い続けるのはツライと思いました。

だから僕は毎回、自分が納得できる意味づけを「追加される目標」に見つけて、それを伝えるようにしました。何か楽しいと思えるような要素が欲しかったのです。

「これをやったらカッコいい!」
「自分達は頼られる存在として認められてるんだ」
「『責任数字』をやるだけよりも、『それ以上』をやり続けるのはキツイ。だからこそ、この目標をやっつける時、他の人よりも上のレベルの仕事をしたってことだ。」
「俺達は会社に乗っかっているんじゃない、担ぎ上げてる方なんだ」
「○○営業所なら必ずやってくれると信頼されてるからこその話だ」

そして既にお決まりだったけど「月例会議で本社に行った時には思い切りでかい顔してやろう!」を合言葉のようにして乗り切っていった。みんなが元気で活気に溢れていて、笑顔の絶えない営業所になっていた。

決して「魔法」のような言葉を送った訳じゃない。
動機付けと呼ぶには「幼稚」な発言も多かっただろう。
でも、僕自身は本気でそう思ってた。

この前年、会議中に掴みみかかってきた彼が「主任(僕)は自分を偽っている!」と言いました。言われた時はまるでそんな気持ちが無かったので、苦し紛れに言ってるんだと思っていました。
後になってみると、彼が言っていた意味もわかるような気がしました。その当時の僕は会社から言われたことをそのまま伝えていたのです。

営業所の新人が本社から帰ってきた或る時、僕に話してくれたことがあります。

「上司の言うことが信用できない」
「誰かに言われたことをただ聞かされている気がする」
本社や他の営業所の同期入社の営業マンの多くがそう話していたらしいです。

他の営業部が苦戦している理由が見えたと思いました。
他の営業部がまさに一年前の僕らの営業所と同じ雰囲気になっている理由がわかりました。

誰かが人に何かを伝える時、それを聞いている人は「この人は本気で話している」のか「誰かに言われて話している」のか感じ取るものです。
それを信じているのか、必要だから話しているだけなのか、判ってしまうものです。

「自分の言葉で伝える」

それは自分の言葉に換える、自分らしい表現で伝えるだけではありません。
自分が納得している・腑に落ちていること、が大前提だと思うのです。

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おバカさんだと思って欲しい。

新卒入社から4年、僕は係長になり、営業所も新しい人が入った。
退職した者もいたし、他の部署に移動になった者もいた。僕の担当する係も新卒者が中心の構成になった。

「本社勤務がエリートコース」というような考え方が多くの企業にはある気がするけど、僕らの会社には関係なかったと思う。そもそも「コース」なんて無いし。それでも一般的な考え方として、入社して配属されたのが営業所だったら「飛ばされた」と感じる人も居るかも知れない。

だったら尚更、「この営業所に配属でラッキーだ!」って皆が感じる営業所にしてやろうと思った。

前年が暗くどんよりした営業所だったから、今年は明るく元気な営業所にしようと思ってた。初回の朝礼から厳しいことも話したけれど、基本的にはオープンに話せる環境を作りたかった。陰でコソコソ話さずにいられる環境だ。

新卒と僕なんて、年齢的には3歳しか離れていない。それでも若い時の3歳は開きがあるし、まして社会人と社会人未経験者では、年下の彼らから見れば大きな違いを感じるはずだ。

だから、僕はかなり意識的に「厳しいこと」と「くだらないこと」を話すようにした。
社会人として大切だと思うことは厳しく伝えたし、必要なら叱責もした。一方でダジャレも連発したし、おどけもした。僕は元々、周りの人を笑わせるのは好きだけど、それを仕事として、やった。
彼らと「垣根」があるなら、取っ払っておきたかった。
彼らが何かを感じたときに「これは話していいのかな?」と迷って欲しくなかった。
変な言い方だけど、僕に対して油断して欲しかった。
「あの人は真面目なトコもあるけど、結構おバカさんだな」くらいに受け止めてくれたら良いと思ってた。

今年度は、彼らが出す<サイン>を見逃したくなかった。
何を話しても構わないんだ!と判っていて欲しかった。

この想いは僕だけじゃなかったと思う。所長も、他の既存社員も同じだったと思う。
そして、新人の彼らもノリの良いのが揃ってた。それぞれに個性的だったけど、素直な人間達だった。

研修期間を終えて現場で動き始めると、彼らが本社に顔を出すのは月に一回、全社員が集まる月例会議の時だけだ。
「本社に行ったときに『でかい顔』できるように仕事をやっつけよう!」なんて言葉でも、彼らはそれを思って、頑張った。本社や他の営業所にいる同期の社員に負けまいと奮い立って仕事した。

夏を迎える頃には他の本社・営業所よりも頭一つ飛び出して成果が上がっていた。
月例会議の日には、自信に溢れて、元気に笑ってる彼らを見ることが出来た。

それは僕にとって、他には換えがたい大きな喜びだった。

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社員数が倍増

新卒で入った会社の4年目。

時は1990年、世の中はバブル景気の最高潮を迎えていた。
過去4年で70人位の新卒が入社していたけれど退職者も多く、この年の春先の社員数は60人程度だったんじゃないかな。
4月になると、そんな会社に50人超の新人が入社してきた。一気に倍近い社員数になった訳だ。

日本全体の景気は絶好調upでしたから、学生の就職活動は「売り手市場」ピークの頃です。今、考えても、あの小さな規模の会社でよくも50人もの新卒採用が出来たものだと思う。
現在とは違って、当時は大学4年になってから就活がスタートしたものです。春先から真夏に会社訪問や面接試験が行なわれていたと思います。
大学4年生には春になるとタウンページみたいな分厚い就職情報誌が毎月、各社から送られてきます。インターネットなど無い時代ですから、この手の情報誌が一番の情報源でした。

僕が自社をR社の情報誌で見つけたときは、見開き2ページ、白黒刷り、写真なし、という掲載でした。
そして、4年後には同誌の掲載は毎月6~8ページを割いていて、カラー刷りあり、写真も多く使われていた。僕も一度、白黒2分の1ページで載ったことがあったな。同期の出世頭はカラー2ページだったけどねwink

まぁ、そんな風に力を入れて掲載していたのもあり、R社の青山だか渋谷営業所だかの顧客企業の中ではトップの反響が学生から寄せられていました。
情報誌に届く企業宛の資料請求の葉書き枚数)
そのエリアであれば、会社の規模が大きく、福利厚生も整った、名の有る企業は幾らでも他にあったのだけど、その中にあって小さな名も無き会社が学生達の関心を集めていた訳です。

NHK教育テレビから「伸びてるベンチャー企業」として社長が取材を受けて、放映されたのも、確かこの頃だったと思います。

日本全体が根本を見失っていた時代。

就職活動でいえば、企業は内定をバンバン出して、内定者の囲い込みに懇親会を頻繁に行い、お土産を渡し、旅行にまで連れて行った時代です。学生を接待漬けwobblyにしてた頃です。
「努力」とか「懸命」なんてものより、上昇風に乗って行こうsign03って風潮が蔓延していました。

そんな中にあって、
「我々の仕事は厳しい」、「誰も我社の存続を保証してくれません」、「社員ひとりひとりが成長しなければなりません」と、学生に媚びない所が逆に関心を集めたのかも知れません。

「会社名もブランド名も知られてないからこそ、営業マン自身の真価が問われる」
「世の中には『会社の看板』で仕事して、それを自分の実力だと勘違いしてる人が多い。名の無い会社だから、そこで成果を出すということは自分自身を買ってもらって、本当に信頼を得たということ」
・・・言葉を換えて、そんなことを何度も言われてきた。
世間に認知されていない<今>だからこそ成長できるチャンスに恵まれていると。

実情は以前も触れたように、「厳しい」を越えて「狂気」ですらあったし、名も無き会社のままだった。それでも、社長の姿・言葉が国営放送で全国に流されたり、他の有名企業を押しのけて多くの学生から関心を寄せられたという事実は、僕らを勇気づけたし、少しずつでも社会に認知されてきているという自信を持ったと思う。

とにもかくにも、そんな訳で既存社員と同数に近い新人が入社してきました。

新しい人たちを迎えるというのは嬉しいものです。
新しい化学反応が起ります。
良くも悪くも、新しい環境へと変わります。
「ゼロ」からスタートしようとする人達を前に、自分も初心に戻る機会となります。

営業所にも新卒がたくさん入ってきました。新しいスタートです。

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素人リーダー

新卒入社3年目のこと。

3年目には同期入社の半分近くが既に会社を辞めてました。この割合が多いのか少ないのかは判りませんけど。。。
この3年目の4月に僕の地元に営業所が出来ました。営業所長の下、総務課二人と、営業部は二つの係の構成で10数人くらいで始まりました。
営業所に係長は一人だけで、二つの係は実質、その年、主任になった僕ともう一人の同期入社の男が任されました。
僕の係は総勢6名で、僕以外に、2年目が二人、中途入社が一人、新卒が二人でした。

主任昇格や初めて部下を持ったこと、新しい営業所ということも手伝って、気持ちもわくわくと充実してスタートが切れました。

男性4人と女性2人の係ですが、基本的には男女でペアを組んで取引先の開拓と育成を行ないます。男性営業と女性インストラクターです。新人の営業マンは営業自体は先輩営業からフィードバックを受け、実際の業務は先輩の女性インストラクターと進めていきます。新人女性インストラクターはその逆になる訳です。
新人への基本的な仕事における価値観の持ち方や商品知識、皮膚科学などは会社の教育部が行なってるので、実務を教え、育てるのが主任や先輩社員の大事な役割です。

入社した時から、将来のグループ会社社長になることを念頭に教育されたので『リーダーとは?』を教えられてきましたし、取引先の店長や先輩スタッフに教育講習を自分でも行なっていました。
2年目の時も後輩指導をしてはいましたが、自分が取り仕切る役割を担うのは初めてだったので、今思い返すと至らないことが多かったのを思い出します。

新人も研修期間を終えて一人で現場に出るようになると、会社から課せられる目標数字も大きくなります。当然、新人各自もプレッシャーを背負っての仕事になります。
追ってたはずの数字に知らぬ間に追われるようになります。
そうなると、自分の中の強い部分や弱いところが出てきます。

数ヶ月たった頃、何回かの転職を繰り返して入社した中途採用の男は、やたらと言い訳を並べるようになりました。隣の係の入社2年目の営業マンも伸び悩んでいたのですが、その2人で「どうせ出来やしないよ」と小声で話すのが見られる様になりました。コソコソと話していることが多くなりました。

わずか10数名の営業所です。たった2人とは言え、そのどんよりとした雰囲気って伝播するんですよね。4月の頃の元気な雰囲気はどこへやら、大きな窓から光が差し込んでても、気持ちは暗~い営業所になっていきます。

秋口にまた新たな営業所を北関東に出すことになり、隣の係の主任が新営業所配属になりました。その代わりに僕と同期だけど主任昇格できなかった男性が配属になりました。彼は同期の営業で自分が昇格できなかったことで辛い思いをしていたと思います。そして、彼自身それを持て余していて、素直になることが難しかった時期だったのです。

やがて、彼を加えて3人がつるむようになりました。

新人営業が好成績を出しても、3人にはまさに他人事です。相手の恵まれている所に目をやって「あれだったら俺でも出来る」なんてことを小声で話しています。もちろん、実際には「隣の庭は青く見える」だけなのですが・・・。
成果を出していた新人営業も良い時ばかりではありませんから、気弱になってる時には3人に引っ張られることもあります。

意欲が落ちて、マイナスの空気をかもし出している3人は当然、より成果が出なくなります。そして、今度はその分、他の誰かが成果を上げなければ係も営業所も目標達成することが出来ません。
本社からのプレッシャーも大きくなってきます。その影響が会議にも出てきます。
悪循環が起き始めていました。僕は打開策を探るより、相手のマイナス的な発言に苛立つことが増えました。責めるようになりました。

ミーティングの中で営業マンを「言葉」で追い詰めてしまったことがあります。じっと聞いていた彼は、突然テーブルの向かい側から僕の胸倉をつかみ掛かってきました。
逃げ場の無いところまで問い詰めて、彼を爆発bombannoyさせてしまったのです。

年末を迎える頃には最悪の空気になってました。営業所にいるのが嫌になってました。

ただ、インストラクター達との関係はわるくなかったと思います。新人女性とも良い仕事が出来ていて、一緒に教育に入っていた取引先も売上を伸ばしたり、スタッフが成果を出したりと喜んでいただくことが出来ました。
新人の彼女は、営業所に来たばかりの頃は今ひとつ元気もなくて、退社時の「お先に失礼しますhappy01」の時が一番嬉しそうで、声も笑顔も弾けてるような人でした。
そんな彼女とも満足できる仕事ができるパートナーシップが築けて、更に彼女が「功績が認めらた新人に送られる月間の賞」(←名称失念)を獲った時はとても嬉しかった。
3年目の数少ない良い出来事のひとつです。

そんな訳で僕の3年目は、すべてが悪いことばかりでは無かったけど、この状態をリセットしたいって思いました。
営業所を覆うギスギスした暗い雰囲気をどうしたら変えられるのか判らなかった。お手上げ状態だった。雰囲気ひとつで、仕事ってこんなにつまらないんだって思い知りました。
だから、このころの事を思い出すのが一番キツいし、恥ずかしい。

年が変わって、また新たな新人を迎える季節が近づいてきました。
今度こそは会社の中で一番明るく・楽しく・仕事できる営業部にしてやる!って決めました。
配属になった社員に「この営業所に配属でラッキーだ!」って言わせてやる!って決めました。

そして、それが僕自身の大切な「軸」になりました。
自分がどんな風に周りの人をリードするのか、どんな幸せを提供する役割を果たすのかが見え始めたのです。

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凄まじい12月

前回からのつづき

その12月が始まった。 滅茶苦茶でもあり、ハイテンションでもあった。
従来も夜遅くに帰社して、上司にその日の内容を報告してフィードバックを受けるという毎日だったが、それが更に細かさを求められるようになった。

取引先である美容室は当時、今に比べられないほど忙しい業種だった。まして12月といえば一年の中でも一番の繁忙期だ。「こんにちはー!!」と店に入ってもお客さんが一杯で、立ってる場所がないことも多かった。待っても待ってもお客さんが切れることがないことも当たり前だった。

その状況の中で一日に数件、その場で商談をまとめなければ目標の達成、つまり立替え入金した自分達のお金を取り戻すことはできない。

近所に取引店があれば「また来ます」と言って出直し、それが出来なければカットしたりロットを巻いている傍に行って立ち話で商談をすすめた。
ひっきりなしのお客さんで、落ち着いての商談など望めなかったけれど、そのお陰でサロンも定時に営業を終わらせることなどない。つまり、通常の営業時間外に訪問しても店は開いているから、商談するチャンスも増えるのだ。

更に好都合ともいえるのはお客さんが多いこと、つまり頂いた代金がお店のレジには多めに入ってると言うことだ。商談さえ決まれば、その場で集金も出来てしまう。
忙しいだけでなく年末休暇で営業日数の少ない12月だ。改めて後日、集金で動くのは時間が取られてしまう。効率的に動かなければ、身動きが取れなくなる。
「今日だけの特別条件です。やるかやらないか今、決めてください。」だ。
行く店、行く店、そこの取引規模に合わせて商談を続けた。

毎日の上司との報告&フィードバック以外に、営業部長を交えてのミーティングも行なわれた。夜、帰社してから各係ごとに人数が揃ったところから部長が入っての会議だ。

今までどんな商談をしたのか。
敗退した商談でも再度チャレンジする価値と可能性はあるか。
今後の商談の予定はどれだけあるのか。
目標達成するために充分な商談予定が組めているか。
その商談を締結できるポイントは何か。
商談相手であるそのサロン経営者は何を「決め手」として納得するのか。
どんな条件があれば、締結率を上げられるか。

などなど、考えられるだけ考えて、「よし!これなら出来る!あとはやるだけ!」という所まで会議は続けられた。
前もって各個人で計画は練っていたものの、他の人の知恵や意見を聞きながら練り直し、より可能性を高めるための会議だった。

だからと言って、現場で100%予定通りに商談が締結するわけではない。
計画に満たない結果が出れば、また練り直すという毎日。
部長を交えての会議は週に1回くらいだったと思うけど、それは正にエンドレスで、終わったら朝方4時を回ってるなんてこともザラだった。
今に始まった話ではないが休日も取らずに商談に明け暮れた。

チラッと見ると「これは難しいなぁ」と思うようなことも
「これなら何とか出来るかも知れないな」と思えるようになると力が入れられる。

「ここまで考え尽くして、どう考えても決まらないわけがないよ、これは」という所まで行くと、決めるのが待ち遠しくなる。

逆に、「これはどう考えても無理!」と思うと動く気にもならない。
「でもなぁ・・・」、「そうは言ってみたものの・・・」なんて、心の底から囁きがあるとブレーキがかかってしまう。

どちらも状況や条件が変わっている訳じゃない。
観点が違ってるだけ。

いたずらに「マイナス思考をやめて、プラス思考で考える」だけじゃなく、プラスの材料を探して集めて、無ければ今から作り出してでも、プラス思考を裏付けるものを揃える必要がある。具体的な動き方を理解っている方が良い。

「何がなんでも決めなきゃ!」ってんで粘りに粘って、ついには警察を呼ばれた者もいた。
「父が危篤で」と急遽、里帰りした者を心配して実家に連絡したら、当の父親が電話に出た・・・なんてこともあった。
社員が自分で借金して穴埋めをするなんて誉められたことじゃないし、経営的に見れば既に破綻している状態だと思う。

それでも、あそこまで綿密に計画を立て、修正をし、更に工夫を重ねれば出来るってことは貴重な経験だったし、その後の僕には大きな財産にもなった。

というわけで、全社で何とかかんとか目標をやっつけて、無事、立て替え金は戻ってきました。

その喜びと、戻ってきたお金に気を大きくして、年末に散財して借金を残した人も何人か・・・何人も・・・いたような気がする。。。ちゃんちゃんcoldsweats01

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凄まじい一ヶ月の幕開け

新卒で入った会社の2年目。
その年の12月は忘れられない1ヶ月だった。

一年の後半、会社全体での売り上げは経営陣の思惑よりも下回っていた。経営状態がひどく悪かったんだろう。もちろん、社員はみんな以前にも触れたように朝から深夜まで働いていたけれど。

そして、10月だか11月だか今となっては定かじゃないが、「目標集金額に満たない分は自分の金で穴埋めしろ!」って話になった。

「今日の飯を食いながら、明日の飯の種をまく」という言葉がよく使われていた。
営業に出たら当月の売り上げ・集金をしながら、来月の商売の種をまき、それを育てておくということだ。

通常、その月の売り上げを月末で締めて、翌月に集金するのが元々の取引先との決まりだ。でも、当時は商談を決めたら、その場で納品し、集金しなければ追いつかない状態だった。
僕のような2年目の社員は具体的な数字として知っていた訳じゃないけど、実態は自転車操業だった。

そこで先の「目標集金額に満たない分は自分の金で穴埋めしろ!」って話が出た訳だ。
会社も表立って社員に、資金がないから金を出せ!とは言わなかった。

「営業マンは担当地域の社長だと考えて、そこで生産性を上げ、運営することが、自身のマネジメント力を成長させることだ。
そこで営業目標を達成できないということは、自分の会社をつぶしたのと同じことだ。」というのが会社の考え方だし、それを僕らも叩き込まれてきた。

「もし自分が社長で、自分の家族を養い、社員を抱えていたと考えてみろ。
会社が潰れるような危機が訪れたら、必死に考えて、必死に仕事して、何が何でも結果を出す筈だ。死に物狂いになったら出来ない訳がない
会社だってそんな無茶な数字を目標にしている訳じゃない。
要は、本気でトコトンやってないから達成できないんだ。」と、社長や営業部長から檄を飛ばされた。

確かに死に物狂いになって、あらゆる手段・企画を考えて、火事場の馬鹿力を出せば、実力以上の結果が出ることも多い。それは判っている。

「責任感を持って仕事するなら、絶対出来るだろう。
仮に落とした数字分を自分で工面するとしても、目標達成すれば関係ない話だ。」

ちょっと有り得ない話に聞こえると思うけど、それは僕ら2年目の社員はもちろん、その年の新人たちにも伝えられた。
そして、これまた有り得ない話だと思われるだろうけど、実際に僕達は足らない数十万という金額を男女の別なく工面してきた。銀行のカードローンやらサラ金で借りて、会社に入金した。

「12月末までに下半期の売上・集金の目標を達成しろ!達成したら、今まで会社に入れたお金は返す!」

これが会社から12月の僕らに与えられた課題だった。
そして、途轍もない一ヶ月が始まった。

このつづきは次回に。

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ひとはひと

新卒で入った会社のこと。

2年目に入った時、20人の同期の内、2人は会社をやめて、4人の人間が主任に昇格した。そして営業部内でも部署の編成があって、それぞれ新しい課・係でのスタートとなった。
僕はもちろん(?)肩書きが変わることもなく2年目を迎えていた。昨日まで肩を並べていた同期が主任研修に出掛けてた時は寂しくもあり、まぁ自分はこんなもんだよなぁ~なんて思ってた。

ちょっと落ち込み加減だったんだけど、生来の「ひとはひと」ってのもあったしね。でも、この「ひとはひと」ってのが結構やっかいな考え方で、両刃の剣なんだな。営業だからお客さんに自社の製品を仕入れてもらって販売してもらわなくちゃならない。そんな時に「ひとはひと」なんて言ってられない。

自社製品の良さ、他にないフォロー体制の利点、そして担当営業としての自分と付き合うことのメリットを、自信を持って訴えなければならない。そして、それを理解してもらい、受け入れてもらい、実際に取り組んでもらうことだ。
僕と、この会社と、付き合うことが取引先の成長・繁栄に繋がると確信と責任を持って伝える必要がある。

熱意をこめて、精一杯伝えた後の最終的な判断を下すのはお客さんだから、先方が結果的に取り組まないことになっても、仕方ないし、当然でもある。
その時に一喜一憂することなく、「ひとはひと」だと自分自身を切り替えて、次の取引先なり、新規開拓で飛び込んでいけるなら武器になるんだ。

でも初めから冷めて「ひとはひと」と思ってたり、斜に構えて見るところのある僕には武器よりも、足を引っ張るものになってしまうことが多かった。

主な取引先対象は美容室でした。
今は美容室で化粧品販売をおこなっている店は減ったけど、当時はかなり力を注いでいるサロンも多かったんだよね。現在のようにコンビニやネット、どこでも売られている時代じゃなかったし、エステサロンもちょっと敷居が高くて、軒数も少なかったな。
美容室自体も忙しい時代で、出店すればそれなりに稼げる業種でもあったんだよね。
カットして、パーマかけて、カラーを施すことだけで繁盛している店は、敢えて新しい製品を扱うことや、その為に皮膚知識から製品について勉強するのを嫌がることもあった。

『サロン自身が現状に満足してるならイイんじゃない。』

そんな時、「ひとはひと」な気持ちがついつい出てしまう。
改めてニーズを掘り出して、そこからやる気にさせる!という思いが失せてしまう。
他店とは違うサロン作りに、自分達と付き合うことで役に立ってみせる!!という気概がどこかに消えてしまう。

この「ひとはひと」って考えが自分なりに消化できたのは、もう少し時間が経ってからのこと。・・・しかし、一度「『ひとはひと』なんて言ってらんないimpact」事がありました。

その日は新規開拓をしていました。飛び込んだお店は開業して1ヶ月、一人で営業されているサロンでした。

そして、そのお店のオーナー美容師さんを見た僕は「sign01sign01sign01」。

なぁんと、数年前に付き合っていた恋人とそっくりだったのです。
姉妹か親戚か、とにかく血縁関係があるんじゃないか?と思ったくらい似てました。
その恋人には結局振られてしまったとはいえ、嫌いだった訳でもなかったので、今度こそ彼女を幸せにしたいheart04sign01heart04と思い切り熱を込めて話しました。

「オープンしたてだから・・・」

「化粧品を売るつもりはないから・・・」

そんなお断りの言葉も構わず、意にも介さず、なんとしてもお付き合い(=取引)に繋げたいと思いました。
数年前の恋人にぶつけるように、目の前のオーナー美容師に自社の強み、自分の想いを伝えました。
「ひとはひと」なんて考えはどこにもありません。「あなたは僕ですheart01」くらいの勢いですcoldsweats01

何でも、こちらの想い次第ですね。かなり短い時間の中で新規納品が決まりましたhappy01
あの時の納品は嬉しかったなぁ~。

それでも、僕の「ひとはひと」思考は雲散霧消したわけでなく、未だ頑固に居座ってましたが、自分の気合や想いが強ければ、いつも以上に理解と共感は得られるゾってことは体得しましたね。

ちなみにその女性美容師さんは僕より4つ年上の新婚さんでしたから、純粋に取引先としてお付き合いさせて頂きました。そのお店に行く時は気持ちも充実していて、楽しかったなぁ。

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笑ワナイせぇるすまん &天才バカボン

新卒で入った会社のころの話でちと思い出した。

僕のことを知っている人ならば、たとえ苦笑まじりでも理解ってもらえると思うけど、僕って結構、面白いことを言うでしょ?
大爆笑!!!じゃなくても、「ふふ」とか「ぷぷぷ」くらいの面白いことなら言うでしょ?

あれsign02

ま、いいや。 とにかく、子供のころから人を笑わせるのは好きだったのね。

小学校の頃、給食breadの時間になると机を向かい合わせにくっつけて、6人位のグループに分けるよね。
で、心に決めてたことがあったんだ。
同じグループの中の誰かが牛乳を飲んでる時にhappy01笑わせるhappy01ってことをね。
うまいタイミングで決まると、牛乳を吹き出しそうになったりするんだけど、それが楽しくってさ。

そんな僕だったけど、会社に入った時はちょっと違ったの。というより、営業先での僕は違ってたんだな。
前にも書いたように、元々「営業」なんてペコペコおべっかを使うもの!という先入観があったわけ。でも本来の「営業」はむしろお客さまとは対等だし、まして会社では「言うべき事は言う」と教わっていた。

僕の中で取引先を「笑わせてあげるなんて、ドラマに出てくるペコペコ営業だ」ってイメージに繋がってたんだよね。
だから、決してお世辞は言わなかったし、お調子者っぽく見られるのを嫌って笑わせることなど考えなかった。そして、取引先では僕自身、あまり笑わなかった。
とは言え、ムスッとしてた訳ではないよ。ただただ、生真面目な顔してやってた。

本当のこと言うと、あの頃、自分はハードボイルドなキャラだangrysign01と思ってた。

笑わせたりしたらナメられる!と思ってた。

入社2年目の時、僕から先輩に1軒の取引先を引き継ぐことがありました。
その先輩は、いつも社内で誰かを笑わせてるような人だったんだけど、引継ぎで同行した取引先でもとにかく笑わせる笑わせる。
そこには、半年ほど僕が担当している間には見たことも無いくらいの爆笑の風景が展開されて・・・、それでも仕事の話はちゃんと進んで・・・

「なぁんだ、笑ってもらったって良い仕事できるじゃんshineflairshine」と、ようやく気づいた。

2年目ということで、後輩たちも入社していました。
或る日、一人の新人女性社員から『同期のYさんが先輩のこと「天才バカボン」に似てるって言ってましたよ』と伝えられました。

ちょうど同行の帰り、これから帰宅しようとする新人Yと出くわしたので、すれ違いざまに「ぼんぼんnoteばかぼんnoteばかぼんぼんnote」と歌ってやりました。

この二つの事件(?)は僕にとっては良い出来事でした。

笑わせたい自分を隠して仕事するのは「嘘」です。
真面目に仕事しても、熱心に製品を勧めても、僕の基本や前提が「嘘」では、伝わるものも伝わりません。そして何より、全然楽しくないdespair

そしてハードボイルドなゴルゴ13のように営業しようとしてたけど、「俺って天才バカボンなんだ~」と思ったら、何かとても楽になったのです。
ゴルゴ13なら背後にもeye目を光らせなきゃならないけど、バカボンなら・・・ね。

という訳で、そこから少しずつ自分らしい仕事の仕方が出てきました。

ただ、今でもお世辞は言えません。 

誉めることはしても、お世辞は言わない。  僕だけのルールです。

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頑張れたのは

新卒で入った会社のつづき。

営業適正のない僕がある時、頑張ってトップを取ったことがあります!と「他社の3年・・・」のところで書きました。
僕のいたチームは新卒が僕を含め3人、中途入社の男性が一人、その4人をまとめる主任が一人でした。10月に中途入社の先輩が退職し、12月には主任が退職しました。新人3人だけのチームになりました。新卒営業二人と女性インストラクター一人のチームでした。

その1月をどんな成績で終えたのか今となっては覚えてませんが、2月を迎えるにあたって「2月は自分達が営業部でトップを取ろう!!」という事になりました。

営業部では毎月、営業マン個人の「売り上げトップ賞」「回収(集金)トップ賞」、そしてチームに与えられる「チーム賞」がありました。この「チーム賞」を獲ろうって訳です。

他のチームは先輩社員はもちろん、主任もいる。

2月はいつもの月よりも営業日数が少ない。

社員旅行も行なわれるので、輪をかけて実働日数が少ない。

マイナス要素は探せばあるけれど、チームとしては逆に熱くなったんだと思う。

しかし、「チーム賞」獲得のための一番のマイナス要因は言うまでもなく僕自身にあった。
以前も書いたように、僕は競争心とか闘争心が少なく、ちょっと冷めてるところがあった。また、「先入観」の強いタイプだったので、行動を起こす前に出来る・出来ないを勝手に判断してしまう傾向が強かった。

取引先に<キャンペーン>と称していつもより多めに製品を仕入れてもらい、販促につなげる仕事も下手だった。「多分、この店は取り組まないな」と思いながら紹介する事が多かった。
だから、自信を持って提案できない。
ちょっとした「No」の言葉に「やっぱりね」と納得してしまう。
「結果を恐れず、言うべき事を言う」のだと頭で解ってても、行動が及ばない。
最終的に「Yes」か「No」を決めるのは相手なのだから、精一杯話をすれば良い、と頭では解っていても、それが出来ない。

もう一歩が踏み込めない。

それでも「チーム賞」獲得については、新人だけのチームで獲ることに面白さや遊び心みたいなものも感じてた。

月初に社員旅行があり、ちょっと社内も旅行気分が抜けない感じだったけど、僕らのチームは結構良いスタートを切っていた。チームの僕以外の二人も良いペースで仕事をしていた。あとは、僕自身がやるっきゃない!!

結果は見事、2位に大差をつけて「チーム賞」を獲得しました。
3人それぞれが何らかの個人賞を得ることが出来た。

他の二人が頑張ってたので、獲得出来るかどうかは僕次第という状況。
それをつっかえ棒に普段踏み込めない所にも一歩を踏み出せたと思う。「僕のせいで逃したくない」という思いがあったからだと思う。

勇気を振り絞って取引先に提案した<キャンペーン>は今になってみれば、「お客さまのため」という視点のボケた浅薄なものだったようにも思う。
前回の『 For You > For Me 』で書いたような「誰かのために」というほどのレベルの話じゃない。

でも少なくとも自分だけの為なら やらなかった頑張りをみせたし、あきらめないでやり切ることができた一ヶ月だった。

「やる気」になること

自分以外の誰かも喜んでくれること

そして、ちょっとした遊び心。

そういったものがパワーになるんだな。 と、実感できた一ヶ月だったな。

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For You > For Me

新卒で入った会社のつづき。

その会社は、随分社員教育にお金と時間をかけてたなぁ~と今になると思います。年に2回くらいは2泊3日の宿泊研修があったと記憶してます。新卒の入社前にも1回ありました。

この宿泊研修の名物(?)が「正座」でした。

社長の一声で突然それは始まります。宿泊施設の研修用の部屋や大広間みたいなところで大きな輪になって始まります。

まず、正座をどのくらいの時間、続けるかは教えられません。多分、社長自身も時間を決めてなかったのだと思います。とにかく社長が「おわり」と言うまで続けられます。
もしも「おわり」の言葉がある前に、途中で止める人がいたら、再度、初めから全員でやり直しをする。というのがルールです。

僕はお世辞にもスリムなタイプじゃないし、足も太いです。始めて10分もすればシビレてきます。でも数十分もすれば、スリムな女性だって当然、シビレがきます。

1時間もすると、じっとしていられない痛みです。
足や膝下は触っても、つねっても、まるで分厚いウレタンでも巻いたみたいに触られている感覚がなくなってます。自分の足が干からびたお供え餅にでもなったような感じです。

お腹の痛みが感じられたり、便意を催すこともあります。

ランニングハイみたいに、ふっと痛みが消えて楽になる時間もあります。

ちょっと面白い駄洒落を思いついて、みんなに言ったことがあります。
笑うと身体が震えて、よりシビレが増します。みんなから「笑わせるな~」と笑って怒られたことがあります。
竹中直人じゃなくても、笑いながら怒れるんだな~あの状況だと。

入社前研修の時、1時間半くらい経った頃、M君が突然なんの前触れもなく「ごめんなさぁいsign01」と言って崩れ落ちました。

みんな驚き!です。

社長が冷たく「やめ!」といって一旦終了です。

だれも満足に立てません。
つま先が伸びたまま立とうとするので、バタバタと転びます。
社長だけが「ほら!立て!」「座るな!」と一人、正座からすっくと立ち上がって歩いています。

少しの休憩が終わって、再開です。10分程度の時間ではシビレもとれず、足をビリビリいわせたまま始まります。

「吐きそうです」と言い出す奴もいます。泣いてる人もいます。
3月のまだまだ寒い時期に汗がダラダラと流れます。

いてもたってもいられず、タオルを雑巾のようにギリギリと絞っていたらビリッと破れてしまいました。新品だったのにね。

結局、その後も2時間くらいやったんじゃないかな。
M君が、またしても崩れそうになるんだけど、周りから「やめるなー」とか「頑張れ」とか怒号のような励ましが送られます。「ふざけるなー」とかってのも混じってたなcoldsweats01

社長から「やめ!」の声がかかった時は、やっと終わったー!と心底ホッとしたな。
さっきと同様に「座るな!立て!」と言われて、ボロボロ転びながら、壁に寄りかかりながらグラグラと何とか立とうとした。

確かに座り込んでしまうとシビレはいつまでも消えないんだよね。出来損ないのバレリーナみたいに妙なつま先立ちでも何でも、立ち上がると血がグワーッと流れて、一時は物凄いシビレが来るんだけど、早い内に復活する。
痛みやシビレが非道い時ほど、立とうとするのが大事なんだな。

「誰だって、一人だけで正座したらこんな長時間できやしない。痛くなったら止めるだろう。自分だけの為じゃなく、他人のために!と思って、やる時に火事場の馬鹿力、潜在能力が発揮されるんだ」

「自分(社長)だって、シビレ無い訳じゃない。
でも社長の自分が痛がったり、途中で止めたら、社員はどう思う?
みんなに『立て』と言って、自分が立てなかったらどう思う?

自分だけの為なら僕にも出来ない。でも誰かの為に!と思うから、痛くなっても顔に出さずにいられるし、終わってから立って歩くことも出来る」

と、まぁ、そんな風に僕らは「 For Youの精神 」ってのを叩き込まれたのですわ。
でも綺麗事抜きで、人は本当に自分だけのためには頑張り切れないよね。自分だけのためでは本当に良いものを作り出せないよね。自分だけのためじゃ、その先に行けないし、行かないんだろうな。

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他社の3年・・・

新卒で入った会社のつづき。

そこでは、入社してからの3ヶ月の試用期間(研修期間)が過ぎると「新人」「新入社員」という呼び方がなくなり、「準幹部社員」という呼び名に変わります。
先輩・上司からの呼び名が変わるということは、自分達も「新人」や「社会人一年生」でなく会社の将来を担う自覚を持って仕事をしなさい!ということです。

時はバブルの始まり頃ですから、今に比べると日本の会社はガンガン働くというよりも、dollarmoneybagザブザブ稼いでdollarmoneybag、ジャバジャバ消費するような時代に突入していたのだと思います。
いかに労せずして儲けるかという迷走の時代に突入し始めた時期です。

しかし、この会社は「努力と根性」の体育会系で、成長志向の強い社風ですから、好景気に沸いてる世間とは別世界です。

『会社の存続は誰も保証してくれるものではない。』

『10年で100の会社をつくるには、全社員が普通の人の何倍も仕事をしなければ出来ないことだ。』

『だから他の会社に入社した人間が3年で経験し学ぶところを、この会社では1年で得て、成長しなければならない。』

この「他社の3年分を、1年で経験し、成長する」って考え方がこれまた僕の中のプライドみたいなものに火を点けたんです。・・・少なくともスッカリその気になりました。
実際、僕らの前年に入社した新卒の中でも、高い実績を残した人は、既に「主任」になって部下を持っていました。

二年目にして肩書きが付くというのも単純に「カッコいいな」と思いましたが、それ以上に「他では得られない」とか「よそとは違う」という感覚が、僕の中の天邪鬼(あまのじゃく)を刺激したのです。

しかし、そんな言葉に半ば酔っていた僕ですが、生来の働き者でもなく、負けず嫌いでもなく、どちらかと言うと、争ったり競争したりするのを好むタイプでは無いのです。
「ま、結果はどうあれ、俺は俺」みたいな冷めた性格でもあります。
営業適正がない!と言われる筈です。狩猟民族のように次から次というより、農耕民族の典型ですね。

という訳で、同期入社の中には先輩を飛び越えて大きな実績を残すものもいましたが、僕は平均的な結果を残す程度で月日は流れて行きました。

しかし、そんな僕でもある時、とぉーっても頑張ってトップを取ったことがあります。
この話はまた次回にでも。

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言葉の力・・・聴覚タイプ?

新卒で入社した会社の社員は朝から午前様まで仕事してた話をしましたが、あれも社員教育のたまもの(?)だったと思います。
「おたくの会社は宗教でもやってるの?」というのも、お客様からよく言われた台詞ですが、「洗脳」に近いくらいのものだったかも知れません。

思えば、僕は子供の頃から、いわゆる格言みたいなものが好きで、歌を聴いてても歌詞の一節に惹かれるようなところがありました。
そのせいか、社員教育の中に出てくる言葉や言い回しで、結構その気になってた所があります。単純なんだな。

■営業マンは人格の発露によって、人格の再構成が出来る素晴しい仕事だ。
(「お金」の絡んだ本気同士だからこそ、相手も結果も率直な答えが出る。自分自身をぶつけて、足りないものがあれば、それを伸ばす。自己成長の機会が多い)

■道徳者でなく、人格者であれ
(どこから見ても正しい人であることは重要ではない。魅力ある人格者であれば良い)

■結果を恐れず、言うべき事を言う
(こんな事を言ったら怒られる?断られる?など結果を恐れずに、言うべき事、伝えるべき事をしっかり言う)

■仕事の意味は「自己の成長」、「貢献」、「喜びと生きがい」

■正しきに寄りて、滅ぶれば、滅びても良し
(正しい使命感を持って事に当たった結果、滅びるなら、それも良し。正しいことを全うするなら決して滅びはしない)

■「For Me」よりも「For You」
(自分の為だけではツライ状況下で弱い自分に負けてしまう。人のために本気で取り組んだ時、顕在能力だけでなく潜在能力が発揮される。それが自己成長に繋がる)

■力愛不二
(力と愛は別々のものではない、力も愛も、片方だけでは発揮できない)

元々、営業職にマイナスイメージを持っていたので、それを跳ね返すような言葉達には引き付けられました。

ただ、そうした言葉とは別に、僕の印象に残っている話があります。
当時、営業マンの教育は主に営業部長がしていました。この人がちょっと見たところ「やくざ屋さん」みたいな風貌をした、眉毛の薄い、ちょっとコワモテな外見でしたcoldsweats02。元々、某カーディーラーの営業でトップを張ってた人で、その人がこんな話をしてくれたことがある。

「俺は営業でお客さんに会うと、第一印象が良くない。でも、そんな時にこう言うんだ。『一年後、二年後にはきっと私と付き合って良かったと思って頂けます』と。」

その場限りでなく、長い付き合いの中でお客さんの役に立って、後になっても納得していただける自信があること、そして実際にそれを行動していくという『約束、宣言』です。

この話は僕の心には大きく響いて、「仮にその場で理解されなくても構わない。後になって振り返った時に気づいてもらえれば嬉しいけど、とにかく、自分も人の役に立って、喜んでもらえる人間になろう!」って思いました。

この想いは、あれから20年以上経った今でも僕の中にあります。仕事観として、人生観として、時にはモチベーションの柱として、今もあります。

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「眠たい」話と「渦中」の話

前回は新卒入社した会社の働きっプリについて話しましたが、それにまつわる余談です。

当時、僕は23区の東端から西端まで通ってましたが、千葉や神奈川の奥から通っている社員も結構いました。みんな4~5時間の睡眠が取れたり取れなかったりでしたね。

だから居眠りが原因の交通事故も結構あったみたいです。

僕自身も入社2年目頃、首都高速で起こしたことがあります。

担当地域が東京の東端と、さらに東の千葉だったので、営業に出掛けるということは西から東に向かうと言うことです。会社から与えら得た営業車はもちろん国産の右ハンドルです。首都高はトロトロとした渋滞です。午前中の太陽はちょうど運転席にとても暖かく眩しい陽射しを送ってきます。眠くなります。うとうとしてしまいます。

「えっsign02」と気づいた時にはトロトロ運転で前のトラックにぶつかった後でした。

1トンくらいの小さな青いトラックです。荷台に大きな荷物や幌など無かったのでトラックの運転席からこちらが確認できます。運転手さんが「次にある非常帯に止まれ」と合図を送ってきました。

こちらも「ごめんなさい」と「了解」の合図を送りました。

なのに、それからも運転手さんと助手席の方が何度もこちらを振り返ります。僕が逃げないか確認してるのかと思いました。

非常帯に一緒に車を止めてみると僕の車には一切の傷がありませんでした。

どうやらトラックの荷台下に据えられた予備タイヤにぶつかったらしく、それがクッションの役割を果たして、双方の車両にまったく傷が残らなかったのです。

トラックの運転手さん達も「確かにぶつかった筈なのに、おたくの車のライトが割れたり、傷が見えないので変だなと思ってたんだ」と笑ってました。二人ともそれが不思議で何度も僕の車を振り返っていたそうです。

これは結果的に、笑って済んだ事故でしたが、大きな事故も結構ありました。運が良いのか、人命に関るようなことは無かったようですけど。

出勤時のラジオで渋滞情報が流れていて、その原因が同僚や後輩の起こした事故だったということも数回あります。

みんな居眠りが原因でしたね。

交通事故以外でもいろいろありました。

同期のJ君は例によって深夜過ぎに帰宅して、玄関先で靴紐をほどいていたら、お母さんから「何やってんの?」と声をかけられたというのです。

なんと彼は靴紐をほどこうとしてそのままの格好で朝まで眠っていたのです。そして彼のお母さんは朝sun、玄関にいる息子に「???」と声をかけたという訳です。

ある女性社員の話。

一時期、どうしても会社全体の目標達成のために文字通り朝までミーティングをしていたことがありました。同期の女性Yさんも眠る時間もなく、「眠気覚まし」の薬を連日服用して仕事してました。

ある時、彼女が僕に「別に悲しい訳でもないのに涙が止まらないのぉ~」と言って、本当に涙を流していました。身体も頭も睡眠を欲しがっているのに、薬で眠らずにいたので副作用があったみたいです。

先日、Yさんに「あの涙事件は忘れられない」と言ったら、ご本人は既に忘れていました。coldsweats01

旧い話ですが、ピンクレディーの二人がどちらも人気絶頂だった頃の記憶が殆ど無いと後日テレビで話していたのを思い出しました。余りの目まぐるしい忙しさのせいでしょうね。

ま、とにかく、そんな状態ですから、みんなも他の会社で働いている友人や家族から「お前は騙されてる!」とか「そんな会社はおかしい」と散々言われてました。

確かに笑い事じゃないんですが、渦中にいる時って、笑っちゃうんですよね。妙なハイテンションになったりもして。

渦中にあって、周りから何を言われてもグルグルくるくる動くことも大切だけど、悪くすると独りよがりだったりしてしまうこともあります。何事も両面がありますからね。

だから、今でも時々、自分が「渦中にいる」ために周りが見えてないかもsign02と確認すべきだなって感じます。

だって、渦中にいる時って、自分が渦に巻き込まれていることに気づけないんだもん。それがやっかいです。

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気が付いたら縁側で・・・

今回は新卒入社した会社のみんなの仕事っプリ?の話し。

その会社も勿論、求人情報とかには「夜中まで仕事します」なんて書いてある訳じゃぁない。たしか「労働時間:9時~6時」とかになってた筈。

で、実際はと言うと・・・

「9時の始業」ということは9時にはキッチリ仕事がスタート出来る状態、ということなんだけど、、、そもそもその会社では「 仕事 = 生産性があること 」と定義付けられていますから、9時の時点では分担されている掃除はもちろん、朝礼も済ませて、仕事開始の状態を差す訳です。

朝礼の開始が8時45分ですから、遅くとも8時半には掃除ができるように出社します。

試用期間の3ヶ月を過ぎた新人も含め、営業に携る社員はほぼ総て、車通勤をしていました。(会社の駐車場に全部の車が納まりきらないという事情もありましたが。)

車通勤は時間が読めないところもあり、当時、会社から遠い実家から通っていた僕の場合、ある程度の余裕を持っての出勤となると6時半前には出掛けてました。

9時には朝礼も終えて、会社を出て担当地域に向かいます。日によって新規の開拓だったり、既存の取引先を廻ります。

当時は携帯電話mobilephoneなど無い時代ですし、今は亡きポケベルも高価な頃でした。営業職の者は外出先から時間を決めて、公衆電話から中間報告を会社に入れます。昼前後に1回、午後に1回、夕方に1回、そして仕事終わりの最終報告で1回です。

この最終報告に当てられていた時間が確か9時だったと思います。

9時に電話を入れて、その日の売り上げや集金の報告をして、更に「10時過ぎには帰社します」という帰社予定時間を伝えます。

・・・そう、直行直帰は基本的にナシでした。

10時過ぎに帰社してから、その日の日報と共に結果報告を上司にします。1件、1件どんな商談をして、どんな結果になったか話します。その報告を元に上司からフィードバック(アドバイス)があります。そして、修正の必要があれば明日の動きを再度練り直します。

それが終わる頃には11時や12時です。朝と同じように1時間半から2時間かけて帰宅すると入浴して数時間眠るだけです。

あっという間に月日が流れるようでした。

このまま行くと、ふと気が付いたら老人になってて縁側で猫catでも抱いてるかも?と思ったものです。

こんな毎日をほぼ全社員が送っていました。男性も女性も関係なく。だって車通勤ですから、終電も関係ないですしねcoldsweats01

取引先の方からも半ば呆れられるように「おたくの社員さんはよく働くねぇ」と言われたものです。「よっぽどお給料が良いのね」と一言付け加えられながら・・・crying

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新卒で入った会社

そんなこんなで入社する事になった会社。社長は当時36歳で、会社を設立してから6年目に入ったところでした。

新卒採用を始めたのが前の年からで、僕ら20人の新人が入社して社員数も倍近くになるという小さな会社でした。たしか、全社員数が50数名位だったと思います。前年の新卒である一年先輩の社員も20名近く採用していたようですが、僕らが入社した時はその大半が退職していて、5,6名しか残っていませんでした。(オマケに女性は一人残らず辞めていました。ちょっと・・・いや、かなり寂しい気分でしたbearing。)だから、社員の半数以上は転職してきた中途採用の人達でした。

その会社には「10年で100の会社を作って、50階建ての自社ビルbuildingを建てる」という目標があり、100の会社を作るということは、100人の社長が育たなければ出来ないことです。そこで僕が就職情報誌で目に留めた「君も社長になってみないか?」というキャッチコピーにつながる訳です。その時点では一社だけ、広告企画を行なう会社が他にありました。

母体となる会社は基礎化粧品の卸販売をしていました。新入社員は全員、そこに配属され、担当地域が割り当てられ、そこにある取引先に化粧品を卸し販売します。新規取引先を開拓することは大きな仕事の柱でした。取引先がまだまだ少なかったのです。

そして「営業すること」はその為の経営を学ぶこと、というのが会社の考えでした。
「営業」は担当地域の取引先で自分の目標を達成する必要があります。担当地域の既存のお取引先と新たな開拓先とで月間の目標、ひいては年間の目標を達成するのが課せられた仕事です。
担当地域を「自分の会社」に喩え、取引先は「自社の営業マン」に喩えられました。そこで目標を達成し続けることが、イコール将来、自分が社長になった時に会社を存続できることなのだと教えられました。

主な取引先である「○○業界の地位向上に貢献する」というテーマ、「10年で100の会社~」という目標、その成長の為に行なう「営業」。
近年、リッツカールトンやP&Gなどの実績もあり「企業クレド」の関心が高くなっていますが、この会社でも毎日の仕事がすべてに直結していた点、良く出来ていた気がします。

事実、全社員みんな朝早くから遅~くまで働くはたらく。

この会社ではこの後、色んなことがあったけれど、あれほど社員のパワーを集めることが出来たのは凄いと思っています。

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仕事だからこそ

今もそうだし、就職活動してた時も『人はその人自身らしく仕事をするのが大事だな』って思ってました。

でも、最初からそう考えていた訳じゃなかった。学生時代は、会社に入ったらやりたくない事もやらなきゃいけないし、自分を押し殺して過ごすことが増えるんだろうなって思っていた。大学の3年生の時まで、そんな風に考えていたんだ。

僕は当時、或る会社の社員クラブでバイトをしていた。まぁ、誰でも日本人なら知っている歴史の或る巨大商社の社員専用の飲食サービスをする場所だった。

そこには高校のクラブ時代からの先輩が二人いて(仮にここではAさんとBさんということにしておく)、どちらかと言うと僕はAさんと一緒に遊びに行ったりする事が多かった。Aさんの方に何となくシンパシーみたいなものを感じていたんだと思う。

そのAさんが4年生になった頃から、以前よりも仕事中に妙にへりくだってペコペコしているのが目に付くようになった。

いわゆるエリートが揃っている巨大商社なので、そこでの人間模様も面白いものだったけど、それはまたの機会に譲るとして、僕自身は彼らが象徴する『 権威 』に反発を覚えるタイプだったもんだから、Aさんの態度にガッカリしてしまった。

だって、Aさんも同じように反発を口にしていたことがあったからね。

そして僕は或る時、Bさんと話していて、ついAさんへの不満を言ってしまったんだ。

就職した仕事ならまだしも、バイトの仕事であんなにへりくだっている先輩が理解できない」というような事をね。

Bさんも日ごろのAさんの発言を知っていたので、てっきり同意してくれると僕は思っていたんだけど、彼は「へぇ~お前、そんな風に思ってたんだ。」と意外そうに言ってから「バイトなんだから未だ良いじゃん。」

『仕事だからこそ本音でやるべきなんじゃないの?』 と一言。

この一言はまさしく僕にガツンimpactwobblyと響きました。

そぉかぁ~、自分の人生で続けていく仕事なんだから本音でやらなきゃダメだよなぁ。

・・・と、目から鱗がポロポロと落ちたのです。

昔のこととは言え、当時の自分を思い返すと恥ずかしいばかりです。これを読んで下さった方にも笑われてしまいますね。

ただ、あの時のBさんの「一言」は僕にとって大きな意味がありました。今でも感謝しています。

あの「一言」は、僕自身の就職活動で会社を選ぶ時の大切な指針になった気がします。

あの時、気づけずにいたら・・・後でもっと大きな痛手になったかも知れません。

ありがとうございました、B先輩happy01

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就職活動必勝テクニック~その2~

いくつもの会社や適正試験で「営業適性がない」という結果が出ていた僕がなぜsign02バリバリの営業会社で採用になったのか。

これについては後日談があります。

入社して数年経ってからだったと思いますが、社長だか専務に聞いてみたのです。
その答えは ・・・ 『血液型がB型だったから』 でした。 coldsweats01

その会社、首脳陣の殆どが「B型」だったんですよ。で、実際に社員の半分くらいはB型でした。
「お前は営業向きじゃないから採用はどうしようかとも思ったんだけど、B型だし、何かありそうな気がしたんで採ったんだよ」 と、言われました。
笑っちゃいますよね。 僕も聞いたときは『 でへっwobbly 』と腰砕けになりました。

それでもね、結局は僕はありのままの自分で試験を受け、それを受け容れてもらい、なおかつ取り敢えずの<可能性のようなもの>を感じてもらえた訳です。
変に自分を繕ったりして、それを見抜かれたら採用されることは無かったかも知れません。

そんなこんなで(その時の)自分の第一志望の会社に入社できたのです。

当たり前ですが、入社してからもアレコレと色々なことがありました。
もしも、他に内定を頂いていた会社に入社していたら明らかに違う人生になっていたと思います。
でも、そんな適正の低い自分に、会社はとにもかくにも内定を出し、僕自身も望んでいた結果だったのですから、これは紛れもない「縁」なんだと思います。

ありのままに就職活動を続けて、「縁」を得ることが出来たのです。

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就職活動必勝テクニック

さてさて、「営業適正がない」と知ることになり、それでも営業会社であるT社(例のキャッチコピーの会社です)が僕の第一希望になりました。

で、僕は早速、「営業適正が有るかのように振舞おう!」としたかと言うと・・・、
しませんでした。

営業に取り組むことは、様々な人と出会い、人を知る・解ることが出来ると僕は思っていました。だからこそ、それを得るために営業をやろうと思ったのです。

その「営業」をしている会社の人間に、さも営業適正があるように振舞っても、きっとバレバレだと考えました。小手先のテクニックで何とか出来る!と思うほどナメてもいなかったのです。

そして就職するということ、会社に入るということは、僕の中では友人関係や恋愛・結婚heart02になぞらえて考えてましたから、こちらが一方的に無理したり、取り繕ったら長い良い付き合いなんて出来ないと思いました。

これは今、思い返しても間違っていないと言えます。

単純に擦り寄ったり、偽ったりしていて、やり切れるほど仕事は楽チンではないし、そんな姿勢でより良い仕事を成し遂げることなど出来ません。

また、自分自身を偽って過ごし続けられるなんて思えませんでした。そして多分そんなことは誰にも無理でしょう。きっと、しばらく続けられたとしても、いつか自分自身が破綻してしまう筈です。自分に嘘をつき続けることは出来ません。

このままの自分で「欲しい!」と言ってもらえなかったら、それは縁が無かったということだ。と、僕の中にある強気の部分と天邪鬼な部分がそうさせたのかも知れません。

そんな風に開き直ってみると、会社訪問も面接もより楽しいものになりました。

そもそも、営業で色々な企業の社長や決定権を持つような人達に会うことが、自分にプラスになると考えていたので、就職活動は正にそのチャンスの宝庫でした。

初めて会った学生に、社長自ら、その会社の理念や展望、歴史、考え方まで話してくれるのです。そして、自分が疑問に感じたことを直接質問する事まで出来て、それに答えてもらえるのです。

質問するのも、ありのまま、素のまますれば良いのです。
この質問をしたらどう思われるのか?なんて関係ありません。テクニックで乗り切る為でなく、「縁」を求めて動いているのですから。

そんな感じで僕は就職活動をしていきました。
そして、そのT社から内定をもらうことが出来ました。

・・・しかし、営業職で内定が出たのは、このT社と、もうひとつは誰にでも内定が出てるんじゃ?と疑ってしまう程のちょっと怪しい会社だけでした。coldsweats01

とにかく、こうして僕は、営業としてのスタートを切ることになったのです。

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「営業」の適正がない・・・?!

「営業」をやる!・・・と決めて、コンサルティング業務を行なっている企業に資料請求したり、会社訪問buildingを始めました。

そして、面接を受けたりもしたのですが、これがことごとく反応はツレナイものでした。
たしかに<怠楽生>だった私ですから、それ程、企業にとって「欲しくてたまらない人間」ではなかったと思います。
しかし、売り手市場といわれた時代です。もう少し色よい返事があっても良さそうなものです。それでも現実には、『ここだ!』と思った会社からは殆どハネられてしまいました。

とあるコンサルティング系企業の就職試験がありました。
そこでは営業職以外にも、SE職など2種ほどの募集があり、面接も3つの職種の人事担当から行なわれました。
そして、結果は営業職以外の2職種からのみ『2次試験に来ませんか?』という返事を頂きました。(-_-;)
その部署の方から「適正試験の結果、君には『営業』の適正がないですよ。」と、教えられました。

それは当たり前ですよね。ついこの間までは「営業」に対してマイナスイメージの塊だったのですから。

自分で『好きだな~』『良いなぁ』と思うものは、相手の方からも寄ってくるでしょうが、『嫌だなぁ~』と思うものは自然と遠ざかっていくものです。

自分が目をつけていたコンサルティング企業すべてから良い返事をもらえず、『どうしようか?』と思っていた或る日、運命の出会いがありました。

『君も社長になってみないか?』

忘れられないキャッチコピーです。

小さな会社で、社長も社員も若い会社でした。キャッチコピーの下には、10年で100のグループ企業を創るという壮大な夢が語られ、その為に営業を通して「会社経営」を学ぶというものでした。

これは面白いsign03 この会社に決めたsign03

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「営業」をやってみよう!の巻

「営業マン」という言葉からどんな人・姿・態度を思い浮かべますか?

僕は学生の頃までずーっと「営業マン」というのは、人にペコペコしながら、おべっかを使って、物を買わせる人だと思ってました。

だって、それまではテレビドラマなどで「営業マン」を見る程度しか知りませんでしたし、ドラマに出てくる「営業マン」は、みんな判を押したようにペコペコしてるイメージしかなかったのです。

「営業の仕事だけはやらない」というのが、僕が就職を控えた頃に考えていた事でした。

そもそも、僕などは<大学生>というよりは<怠楽生>と言ったほうが良いような人種でした。
自分の稼ぎで暮らしたいと思ってはいたものの、特に何かやりたい職種や仕事がハッキリしていた訳ではありませんでした。
強いて言えば、「小説家」か「作詞家」にでもなって、人の心を感動させられたら良いなぁ~なんて、とてもあやふやなイメージがあるだけで、まるで子供の夢にも及ばないレベルでした。

大学4年生になると、就職雑誌やらDMやらが毎日のように家に届くようになりました。そして、ある時届いたDMに僕は心を動かされたのです。それは、『営業職募集!』のDMでした。
そこには「営業マン」になることの素晴しさが綴られていました。そして、営業は「机上の人」でなく「路上の人」だと書かれていたのです。これはカッコいい!と単純に僕は思ってしまいました。

「路上」といえば、On The Roadです。STREETです。それはDESKやOFFICEよりもROCKっぽくてカッコいい。

こうして振り返ると、実に幼稚な発想なのですが、少なくとも「営業マン」のイメージが僕の中で変わったわけです。

そのDMを送ってきた会社は企業相手のコンサルティングをしていたので、取引相手は会社の経営者などが多く「これは個性的な人達に沢山会えるな」と思いました。
多くの人に会って話を聞き、人を見て、人を知ることが出来る。これは上手くすると、将来小説を書くときの参考になるかも?なんて事まで考えました。

とにかく、そんな訳で僕は「営業」で、トップの人に会えて、(おまけにこっちからアドバイスできたらカッコ良いので)「コンサルティング」をしている会社を狙って就職活動を始めました。

狙うべき「的(まと)」はハッキリしたものの・・・

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『へなちょこ』の成果

そのとき、僕は舞台の上から営業所のメンバーひとりひとりの名前を呼んで「ありがとう」の言葉を伝えた。

全社員集まっての忘年会で、その年の「社長賞」が僕に授与されたのだ。

僕は当時、ある会社の営業所にいて、営業部のリーダーをしていた。その年の春に入社した新人を中心に構成された営業部だった。
そして、その半年近くの間、他の営業所はもちろん、本社営業部にも大きな差をつけるほどの実績と、なによりも僕の一番求めていたものを創り上げることが出来ていた。

「やればできる」なんて言葉はよく耳にするものだけど、それを実感できたし、心から信じられていた。誇りと自信にも満ちていた。
出来ないことは何も無いと理解っていたし、それは誰にでも起こし得ることだと確信していた。

自分にも、誰にでも可能性が溢れていると未来を信じることが出来た。
無敵の感覚すら覚えていた。

でも、それまでの僕は『 へなちょこ 』だった。

『 へなちょこ 』の僕が大きな成果を創り、百人ちょっとの会社とは言え、年間のトップになる。
・・・これはちょっとしたサクセスストーリーだ。

映画なら、ここらでエンドロールが流れて「めでたし、めでたし」となるラストシーンだ。

しかし、人間は「なまもの」だなって思う。
気を抜いて怠けると、臭気を放ったり、腐ったりする。
気持ちが折れたり、行き先を見失うと、小さなことさえ何も実現できなくなってしまう。

僕はその社長賞をもらってから、数年後には『 へなちょこ 』どころでなく、くだらない奴に成り下がった。

そして今、また楽しく頑張れる自分がここにいる。

楽しく頑張れるが、まだまだ、あの頃ほどの成果を成し遂げていないと感じる。
あの時ほど、周りの人間を幸せにしていないとも思う。

今もう一度、自分でもわくわくと震えるようなことを起こそうと思う。

「今までのこと」のカテゴリーでは、僕の『 へなちょこ 』を振り返りながら、新しい成果をしっかり掴むキッカケにしようと思う。

人間は『 現在 』にいきる生き物だと思う。
「今ここ」を「明日」に繋いでいく生き物だと思う。

過去の栄光みたいなものにすがる様になると、きっと心も体も老いて行くんじゃないかな。

だから僕は、ある意味、ここで過去を晒して、過去に決別をしようと思う。
ちょっと矛盾してるように聞えるかも知れないけれど。

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