カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の25件の記事

「学ぶ」に潜む クセモノ

子供の頃や学生の頃、勉強が好きでしたか?
僕は遊んでる方が好きでした。勉強が楽しいなって思った経験は少なかったと思います。
学校に行くから、まぁ、仕方なく勉強をしていたようなものです。

中には、好きな勉強もありました。
上手に出来るものや、達成感のあるようなものは好きでした。
例えば、体育の授業でも短距離走や飛び箱は好きでしたが、マラソンは嫌いでした。
算数は嫌いだったけど、「証明」の問題はクイズみたいで好きでした。

それでも、「勉強」というと、心躍るものではありませんでした。

今から10年くらい前に、英語と中国語にハマったことがあります。
当時は営業の仕事をしていて、一日中、車で移動してました。その間、ひたすら英語と中国語のラジオ講座を録音したテープを流し続けてた事があります。
その時に、自分から進んで行なう「勉強」というのは楽しいもんだな、と初めて気づきました。
「学習」が「楽習」になるんですね。

中国語では「勉強」と書くと、日本語の「無理強いする」という意味になります。
それまでの僕が経験した「勉強」は、正に自分に「強いて」いたのだな~と思ったものです。

いわゆる「学問」と呼ばれるものに限らず、何か自分にとって新しいものを「学ぶ」のは楽しいものですよね。

学ぶのは楽しい。
この<楽しい>という感覚が、実は曲者(くせもの)だなって思います。

たとえば、僕の場合、この2年弱、大きな括りで言うと「コミュニケーション」について、書籍や講座を通して、学んできました。

2年前に、「自分には未だ何かできるのか?」「これからどうしたいのか?」と考え(迷いを覚え?)ました。そして、それを明確にして、自分を信じて進みたいな!と思ったのが、学び始めたキッカケです。

僕にとっては、方向性や目標がハッキリして、自信を持ってスタートを切れれば、それで良い訳です。それが目的で始めたんだから。

ただ、「学ぶ」のは<楽しい>ので、本来の目的を超えて、学ぶこと自体が楽しくなったり、もっと学びたい!、その先を知りたい!、という欲求が出てきます。
(この欲求が、人間を進化・進歩させてきたのだと思いますが。)

そうなると、「学ぶ」ことにどんどん魅了されてきます。

スタートを切ることよりも、学び続けることに意欲が湧いて、当初の目的からすり替ってしまいそうになりました。

学ぶこと、そのものが目的の場合。
と、
何かの目的のために、学ぶ場合。

自分がどういうスタンスで向き合うのか?憶えておく方が良いと感じました。

もちろん、状況や環境が可能なら、勉強を続けながら、スタートを切っても構わないでしょうし、勉強をしていく中で、自分自身に化学反応が起こって、新たな目標や目的の軌道修正が必要になることもあるでしょう。

学習する、とか、習得するってことは、自分に変化を促しますからね。

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ストーリーを組み立てよっと!

今、不幸か?といえば、決してそんなことはない。

至らないこと、力の及ばないこと等々、そりゃ色々あるけど、
「もっとこんな風に在りたいな」とか
「実現させたいな」と思うような事があるんだから、幸せなんだと思うのです。

もちろん、現状に満足しているかといえば、そんなことは無いわけで、むしろ、不満の分子はそこら中を飛び回っています。「 窮状 」と言えなくも無い状況も、このままでは起り得そうです。

「世の中におよそ『 困難 』というものは無い。ただ、それを『 困難 』と思う心があるだけだ」という言葉を読んだことがあります。

悪いように考えれば、それも容易いのですが、、、

これが、僕が主人公のドラマや小説だったら、この状況からどんな風に抜け出していくのかな?と考えると、気持ちも上向きます。

「さて、どんなストーリーにしたら面白くなるかな?」なんてことを考えています。
そしたら、後は個性派俳優(?)として、その役にどっぷり浸かるだけです。

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灯り

『 自灯明・法灯明 』という仏陀の言葉があります。
僕の好きな言葉です。

僕は宗教に属していませんし、宗教学を学んだこともありません。
この『 自灯明・法灯明 』は今から20年以上前に、NHK大河ドラマ「伊達政宗」で初めて耳にした言葉でした。

幼くして片目の視力を失った正宗に、大滝秀治さんが演じる寺の住職が話す場面でした。

「人は人生という暗い夜道において、自らを灯明として歩いていくのだ。
しかし、もしも自分の灯りが未だ弱く、道を照らせないのであれば、
その時はお釈迦様の教えである『法』を灯明として、歩いていけば良い。」

というような台詞でした。
僕には忘れられない言葉になりました。
仏教という世界三大宗教においても、行き着く先は仏教そのものの教えが最重要ではなく、自らを灯明として一人ひとりが自分の足で歩くことを求めたのだ、と感じたのです。

一言一句そのままでは無かったと思いますし、ドラマの上で住職が「方便」として話した言葉なので、本来の仏陀が意味したことと違うかも知れません。
テレビから不意に飛び込んできた台詞ですから、その後の20年間で僕の好きなように解釈がなされてしまっているかも知れません。

自分なりの指針が無いならば、「法」を道標として歩いていく。
自分の羅針盤が明らかになってきたら、それを軸に歩を進める。

「自由」は、自らに由(よ)ると書きます。

情報化社会の中では、何か新しいことをやろう!とすると幾らでも関連する情報を手にすることが出来る。
ネットでも書籍でも、時間や労力をかけずに触れることが出来る。
自分にとって未知のこと、初めてのことも、前もって指針を得ることが出来る。
その情報は「玉石混交」かも知れないが、その気になりさえすれば、数ある中から「法」を選び取ることが出来る。

「他由」なんて言葉は無いでしょうが、他者に由って始めることが、より手軽に、可能となっている。

去年、今年と、法を灯明として過ごしてきたように思います。
その灯りが、僕の中の蝋燭の灯りを、より周囲を照らせるものに育ててくれたものと感じます。巡り合わせ、出会いの妙に感謝です。
そして、「法」には謙虚に向かい合うことが大切なんだと思います。素晴しい「法」であればある程、依存したり委ねてしまうだけのパワーや輝きがあるからこそ、謙虚に受け止める姿勢が必要だと感じます。
(変な言い回しになってしまいましたが・・・伝わる?)

ここらで再度、自分の源泉と、照らし出せるものを確認してみます。
『 自灯明 』を頼りとして歩くために。

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今、僕がいる場所

昔、「詩のようなもの」を毎日、書いていたことがある。
高校や大学に通っていた頃だ。

あの年頃に多分、誰にでもある一種の自意識過剰や、自分を持て余した感覚を、僕の場合、「詩のようなもの」にして、もがいていたのだと思う。

自分自身が何者で、どれほどのもので、何に価値を持って、何を為したいのか?

時が経って、色々な経験もし、心も動かされ、あの頃ほど朧(おぼろ)でもなく、行こうとする方向なども見えているけれど、それに反する対抗勢力が自分の中に潜んでいるのも同時に感じる。
「自由」な在り方や、「勇気」を試されている感覚。

イチローのように小学校の卒業文集に書いたことを、そのまま突き進んでいるような人もいる。迷い無くその道を進む人を「凄いなぁ」と思う。

でも彼らには彼らで、その場に安住することなく、更なる先を開拓していく勇気や刷新を図る試練があるのだろうと思う。「もう、充分だよ」という囁きと戦っているような気がする。

立っているステージや段階は人それぞれだろうし、到達する頂の高さも違うんだと思う。

それでも、同じレベルの頑張りは絶対に必要なんだと思う。同じくらいの行動が必要なんだと思う。恐れに振り回されず、今、何が出来るかを自由に発想して、勇気を持って、やれることをヤル。

そんな場所に今、僕は立っています。

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コスメ薬事法管理者

今年2008年6月から「コスメ薬事法管理者」という民間資格がスタートしました。
それまでは健康食品に関わる「薬事法管理者」の資格だけだったのですが、新たに化粧品についての資格が出来たのです。
内容は、化粧品に関わる「薬事法」、「適正広告基準」に基づいて、化粧品広告にどんな配慮・工夫をするか?というものです。

化粧品は薬事法において『人体に対する作用が緩和なもの』と定義付けられています。
仮に、とても優れた夢のようなheart01製品であっても「シミやくすみが消えた!」とPRすることは出来ません。たとえ1000人の人が使って、1000人全員のシワが消えたとしても、それを謳い文句にすることも、データを記載することも出来ません。

様々な媒体に、たくさんの化粧品広告が載っています。
近年はインターネットでの化粧品販売も大きく成長して、PCや携帯で購入した経験を持つ人も多いと思います。
大手ショッピングサイトの楽天市場をみるとスキンケア製品だけで30万件弱、ボディケア製品で10万件の掲載があります。楽天に限らず、どのネットショップでも自主規制などを設けて誇大広告の抑止に努めていますが、違反広告は後を絶ちません。
ちょっとランダムに見てみても、必ず過剰な違法表現が含まれています。

僕も思えば、20年以上、仕事として化粧品に関わってきましたので、良い機会だと思って、受講を始めました。今まで業務上の知識として知っていたことも、系統立てて勉強し直すと理解が深まり、整理できますね。

お陰さまで、資格試験も無事、合格致しました。Dvc00002 (今日、認定証が届きました。)
以前、気象予報士の制度が始まった時に、天気予報番組でおなじみの方が試験に落ちた!という報道がありましたよね。僕も同じ轍を踏みたくない!!と思って、資格試験の時には、ちょっとしたプレッシャーを覚えました。

どんな資格も同じだと思いますが、取得して、ようやくスタート地点みたいなものですよね。
運転免許を取ったからと言って「運転が上手」と認められた訳でもないし、調理師免許を持ってても「美味しい料理が作れる」のとイコールではありません。

「コスメ薬事法管理者」の資格も、その知識を有するだけでなく、実際に消費者の方に過不足なく正しい情報を伝えられること、が大切なんだと思います。
これからもっともっと、表現力・語彙力を身につけながら、活用できる<知恵>を豊かにしていきたいと思うのです。

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小説と映画と・・・

小説を読むときとか、映画を観るときも、そう。
やっぱりドラマチックな展開を楽しむよね。

ドッタンバッタン。
上へ下への急展開。
歯を食いしばっての現状突破。

『二人は出会って、性格もピッタリで、みんなに祝福されて、一緒になりました。』

とか、

『銀行で人質を取っての立てこもり事件が発生したが、警官が説得を試みたところ、諦めて人質を開放しました。』

とか、

『生活に困り果てていたが、宝くじに大当たりして、すべて解決。めでたし、めでたし。』

・・・なんて小説も映画も探したって、無いよね。
だって、誰もそんな山も谷もない、平坦なストーリーを求めたりしないから。

ところが、我が事となると、ついつい、『すんなり上手く行かね~かなぁ』なんて思っちゃう自分がいる。甘いのぉー。

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「頭痛」から学んだ・・・こと?!

何故かわからないんだけど、この数年は調子がいい。
でも、それまでの10年くらいの間、とてつもない頭痛もちだった。

一年中、毎日起こってるわけでなく、一度頭痛が起きるとそこから連日続くという状態。夜中、激しい頭痛で目が覚める。会社で事務処理をしていると頭痛に襲われる。営業で車を運転していると突然やってきて、運転を続けられなくなる。訪問先で商談中に痛み出す。

僕の頭痛は後頭部の右半分から首の付け根にかけての痛みだった。痛み始めると頭の右半分からダーッと汗が流れ出す。冬の寒い日でも、頭だけ汗がダラダラと流れる。視力がボヤけて、右目が涙目になる。頭痛薬を飲んでも効かず、1~2時間静かに横になって嵐が過ぎ去るのを待つ。横になれない状況の時はじっとしてると却って辛くて、ひたすら動き回る。歩き回って痛みと自分をごまかしてやり過ごすことしか出来なかった。

まさに爆弾を抱えて生きてる気分だった。
いつ、痛みに襲われるか判らないので、誰かと約束をすることも、仕事のアポイントをとるのも不安だった。

『こんなんじゃ生きていけない・・・仕事もできない・・・』とゆーくらい、本気で明日に不安を感じてた。

しかし。

しかし、である。
1~2週間続いた頭痛が消えて落ち着くと、そんな不安もどこかに行ってしまう。
あのどうにも耐えられない痛みの記憶すら薄れてしまう。
「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ってやつだ。

で、ある時、思ったわけ。
今の僕は、頭痛に襲われてる瞬間の僕の痛みを本当に解ってやることは出来ないなと。タイムマシンがあって、その場に行けたとしても、痛みに耐えている僕と同じだけの痛みを感じてやることも出来ないだろうと。
下手すれば、「わかるよ、俺も経験あるからさ」なんて役にも立たない言葉しか掛けられないかも知れないなって。

時差のある(?)自分自身でさえ本当の共感や理解するのって難しいんだな。
それが他人だったら言わずもがな、、、だよね。

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気づき・・・って何じゃ?!

一昨年までの数年、僕としてはかなり落ち込んでいました。
明日に希望を見出せずに、無力感のようなものに支配されていました。

何とかしなきゃ! 何かしなきゃ! ・・・ でも、何とかできるのかなぁ~sad
そんな気持ちでいました。

去年の初め辺りから人や書物などとの「良縁」に恵まれて、今は元気に明日を見られるようになりました。
一時期、味をしめて、書籍を読み漁ったりもしましたが、そこである言葉をやたらと見かけるのです。

それが『 気づき 』という言葉です。

Amazonの書評などに目を通すと、やたらと目に付くのです。
『この本を読んで、今までにない気づきを得られました』とかなんとか。
中には「この人は<気づきコレクター>なのかな?」と思うような書き込みも見受けられます。
やたらと『 気づき 』を次から次へと探して、収集しているらしき様子を見ると、首を傾げてしまいます。

『 気づき 』というのは、多分、スタートの合図みたいなものだと思います。

もしくは、何らかの法則やルールのようなものかも知れません。
それを携えて、実際に動いてみることに価値があるのだと思います。
英語は「主語+述語+目的語」と並べるんだな。と知ってても、それだけでは大した意味は無い。それで文章を書いたり、話したりして、初めて価値が出てくる。

もっと極端な例にすれば・・・
「重い荷物を抱えて電車に乗ってきた女性が妊婦さんだった」ということや、
「荷物を代わりに持ってあげたり、席を譲ってあげたら良い」という『 気づき 』を知っていても、それだけじゃ何の役にも立たない。行動に移してこそ、光るものだ。

『 気づき 』がどんなに素晴しいものでも、決して眺めて楽しむ芸術品でなく、名匠による道具なんだと思う。

手にしたツール、もっともっと使いまくってやろう!!っと思うのです。

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言葉にする人ほど・・・

「気づかないと思うけどさ、俺はホント、みんなに気を使ってるんだよ」

そんな事を言う人、いない?

不思議なんだけど、この言葉を口にする人ほど、逆にみんなから気を使われていることの方が多いように思う。そして、本人にはその自覚がまるで無いように見える。
「人が○○○した時に、そこで×××とか△△△とか考えて、そりゃーもう、気を使って・・・」なんて解説まで始める人に限って、それ以上に他の人から気遣われている。

気を使っている人は、気遣ってるからこそ、周りの人に「自分は気を使ってる」なんて話さないと思う。
どれほど気を使ったところで「至らないことがある」って知ってると思う。

だれでも100%すべて、周りの人や物事に、落ち度なく気遣いすることなんて出来ない。
A分野については良く気づくけど、B方面はカラッキシ。そんな<得手・不得手>が気遣いや心配りにもあるものだ。

これも『慢心』によるものなのかな。
それとも確信犯かな。「とても気を使ってるんですが」を免罪符に、ズケズケ踏み込むための。。。

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オムレツ

オムレツ、好きですか?
僕は好きです。食べるのも、作るのも好きです。

オムレツを作るのは難しいって言いますよね、基本だから。
多分、僕の作るオムレツも世の料理人に見られたら、あれこれ指摘を受けるのでしょうし、及第点なんて貰えないのだろうと思います。

ただ、僕は誰かにそれを食べさせる訳ではないですから、自分が食べたいオムレツさえ焼ければ良いのです。でしょ?僕が自分で焼いて、自分で食べて、「美味しい!!」ならOKです。

人生の行きかたも、そうですよね。
人生というオムレツは、誰かに喜んで食べてもらう為のものでもありませんし、世間一般の基準に合わせた焼き加減にする必要もありません。
誰もが喜んでもらえる当たり障りのないオムレツが焼けても、それが僕の食べたいものと違っていたら嬉しくないです。
自分で焼いて、自分で食べて、「美味しい!!」のが一番です。

もちろん、そのオムレツが誰かに迷惑を及ぼすようであれば困りますが・・・そんな妙なオムレツや人生を僕も求めていません、、、多分。

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贅沢なこと

本が好きです。
だから書店に寄るのも楽しみです。
本を買う時はもったいないとか考えず、気になった本や、好きな作家の本は躊躇いなく買ってしまいます。

そして、時々読むペースに追いつかずに、いわゆる「積ん読」が増えてしまいます。
それでも、また書店で好きな本に出会うと買ってしまいます。

本を読むというのは、それなりに時間を費やすものです。
僕はフォトリーディングとか速読には関心が持てないタイプなので、そうした技術もなく、文字を追うように本を読みますから、普通に時間がかかります。

そんな風に時間を使っても「本を読みたい」と思えること。
それって、実は贅沢なことだなって最近、思うようになりました。

そして、読みたい本が沢山あるってことも、とても贅沢だし、幸せなことだなって思います。

何らかの勉強に読む本もありますが、小説好きの僕が本を読むということは、楽しみのための読書です。
興味を満たしたり、新しい考えに出会ったり、フィクションの世界に遊んだり・・・そのために時間とお金を費やすって、贅沢なんだと思います。
それが「出来る」ってことは、実はとても幸せなんだと思います。世界中を見回すまでもなく。

次はどの本を「積ん読」から救い出そうかな。。。

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文化を創っている・・・って自覚

駅からの道を歩いていると、向こうから自転車に乗ってくる男。
すれ違いざまに持ってた何かを傍の植え込みに投げ捨てた。

スーパーで買い物をした。会計を終えて、買ったものをレジ袋に詰めていた。
隣りで同じく詰めていたおばちゃんが買い物籠をそのまま置きっぱなしに出て行った。

国の責任者と呼ばれてた人が、或る日、ポイッとその職責を投げ出した。

それぞれにとてつもない理由があったのかも知れない・・・百歩も一万歩も譲って、仮にあったとして・・・それでも、やっちゃならん事ってあるんじゃないか?

そりゃね、僕も聖人君子として生きてきた訳じゃないし、これからもそんな積もりはない。
ただね、大それた行動でなくとも、僕らのやることは、「常に見られている」と意識すべきなんじゃないかな。
神様に見られている・・・ってこともあるかも知れない・・・けど、そんなんじゃなくて、少なくとも子供達は見ていると思う。

社会って、大人って「こういうものなんだぁ~」と何気なく見ながら、それを「当たり前」「常識」として捉え、学習していくんだと思う。何気ないこと、些細なこと、取るに足らない瑣末なこと・・・だからこそ、繰り返し目にして刷り込まれていく気がする。

そして、「異常」だったものが「当然」になると、それは「習慣」になり、その土地、その国の「文化」として根付くんじゃないか。

大げさに聞こえるかも知れないけど、僕らの一挙手一投足が、良くも悪くも「文化」を創造してるって自覚した方がよいと思う。
「未来」を創ってしまう恐さを感じるべきだと思う。

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なんでなんだ?!の工夫

北京オリンピックが開催されています。北島康介が2種目で金メダルを獲得しました。これでまた、SPEEDO社の水着「レーザーレーサー(LZR RACER)」が益々売れるんだろうと思います。現在でもかなり売れているそうですしね。
先日、ニュースを見ていたら高校生の水泳部の生徒がレーザーレーサーを着て、タイムが劇的に縮まったと話していました。一方で、「1着、1万円もするから購入をためらう」という生徒もいました。
で、それを見ていて思ったのです。保守的な意見かも知れませんが、これから益々技術を磨いて工夫を重ねる必要がある時期から最高のツールでタイムを上げてしまって良いのか?と考えたのです。

ちょっと僕自身の想像も入っているのですが、例えば北島は前回のアテネオリンピックで金メダルを獲得してからの4年間、他の海外の強豪選手たちがどんどん記録を出して、タイムを縮めているのを見て、「どうしたらあのタイムを越える泳ぎが出来るのか?」を真剣に考えて取り組んできたと思うのです。

水泳素人の僕にはわかりませんが、腕のストローク、足の蹴り、ターンの仕方など一から見つめ直して、「コンマ零○秒」早くする為に努力を重ねてきたと思うのです。
「どうしたらもっと自分は早く泳げるか」に焦点を当ててきた筈です。

他の選手が「レーザーレーサー」という武器を使ってタイムを稼いでいる時に、それを持たない北島は「泳ぐのは人間だ」と、環境や道具でなく、自分の技術を磨いて突破しようとしていた。外でなく、内に求めた。

その工夫と努力を重ねてきたからこそ、所属するミズノの水着からレーザーレーサーに変更した時に大きくタイムを伸ばすことが出来たし、オリンピックの大舞台でも他者を圧倒する結果を出せたのではないか?と思うのです。

加圧トレーニングや高地練習などは顕著な例だと思うけど、筋力だけじゃなく、何でも「伸びる時」、「力がつく時」というのは少なからず負荷が掛かっています。
自分より上のレベルの者、ライバルの存在、成し遂げたい目標、立ち塞がる壁、どれも大きな意味では『自分への負荷』と言えるでしょう。

そして、そこに正対する時、失敗して傷ついたり、絶望しそうな事も起るかもしれない。それでも試行錯誤を繰り返して、目に見えない僅かなプラスを積み上げて人は成長する。

まぁ、あのニュースに出てきた高校生は大学や社会人になってまで選手を続ける気はないのでしょうから、高校の大会などでより良いタイムが残せれば、それで良いのかも知れません。でも、もしも、自分の「底力」を向上させたいと思うなら、その大事な機会を自ら奪ったと思えるのです。
今は高額なツールを手にできない周りのライバルが、いつかそれを手にした時に「地力」の違いは大きくなっているから。

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共感とスケールダウン

10数年前、営業中の車中でラジオを聞いていた。パーソナリティを当時40歳前後の有名俳優が担当していて、その日は元オリンピックのメダリストがゲストだった。
当然、その対談はメダリストのオリンピックに臨んだ時の話になった。日本の期待を一身に背負って試合に入る時の極限ともいえる緊張状態を語っていた。聞いているこちらまで、そのプレッシャーが伝わってくるようだった。

『それ、わかりますよ。俺も舞台の初日を迎える日はもの凄く緊張するんですよ。』

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僕は車の中から毒づきそうになりました。『随分、傲慢なこと言うじゃん!』って思いました。演目は違うにしても、毎年やってる舞台の初日とオリンピックが同じか?!

「レベルは全然違うんだけど、僕はこんな場面でも凄く緊張するんですよ。ましてオリンピックともなれば・・・」って話なら解りますよ。
同一レベルの話として、さも共感しているように話す俳優の神経に愕然としました。

まったく同じ経験は誰も持ち合わせていないから、自分の似たような経験に照らし合わせて、そこで少しでも相手の話を理解しようとする。
それ自体は『共感を覚える』基本かもしれない。

でも、それって『手がかり』以上のものじゃない。

たとえそれが酷似した経験だとしても、そこで感じたもの、考えたこと、心を震わせたことが大きく違っている事だってある。
そんなことにも思い至らずに、解ったような顔をするなんて不遜に過ぎる。思い上がりも甚だしい。

自分の中に、たとえスケールは違っても、細かい状況は違っても、似たような経験、似たような感覚を見つけて、それを共感の「種火」として灯す。
と、同時に自分の器を空っぽにして、相手の話を新鮮な驚きをもって杯に受ける。

矛盾するようだけど、この相反するような状態で耳を傾けてこそ『共感』に近づくんじゃないかな。

人の経験を自分の経験に引き寄せたり、スケールダウンさせて聞くなんて『偽善』だと思う。話し手がデリケートな人なら、話すほどに、相手が頷くほどに「解ってもらってない」と感じるだろう。

とは言え、相手がオリンピックでメダルを獲得した時の話なら、こちらも「レベルが違う」と思って受け止めやすい。
日常に隠れている、ちょっとした喜びや感動、痛みや失望を覚えた話を聞く時こそ危ういんだ。
「お客さんにこんな風に感謝された」とか「喜んでもらえた」、「一生懸命やったのに思ってた結果に結びつかなかった」。
そんな時に「はいはい、わかりますよ」と、なりがちだ。

簡単に見えるほどに難しい「そのままに受け止める」こと。
いつも出来るように心がけていたいな。

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爽快に打ちのめされた!

一昨日と昨日は、頭を鷲掴みにブンブン振り回されたような二日間だった。
自分の考えが未だまだ甘く、浅かったことを思い知らされた。

経験も実績もあるあの人が何故、今もって本を読みながら『スッゲー!!』と大騒ぎするのか?心を震わせるのか?
解ってた積りだったけど、上っ面を舐めているだけだった。

安直に「共有」したり「共感」した気になってちゃダメだ。

自分の中に、その大きさこそ違っていても、相手が持っている痛みや悩みと同じ「種」に焦点を当てて、そこで繋がること。
その一方で、初めて見聞きする驚きや感動を持ち続けていること。

一見、矛盾しているような「在り方」。

でも、そこには「訳知り顔」や「したり顔」、「上から目線」の欠片も無い。

未だまだ、僕は甘かった。
彼の「在り方」に、打ちのめされました。気持ち良いくらいにスカーン!と。
改めて、出直しです。

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「いい人」になんか成りたくない

4ヶ月前からブログを書き始めて、今のことよりもむしろ昔のことを思い出してあれこれと綴っています。
今の自分が、どんな過去の自分を積み重ねた結果なのか?を整理する作業と考えて、ブログを始めました。

今日、ふと気づきました。あの頃は「むきだし」だったなって。
「あの頃」というのは、前回、前々回のところで書いた入社4年目からの26,27歳以降のことです。

あの頃は自分が信じたことをストレートに、手加減なくぶつけていたと思う。
反発を受けることも厭(いと)わなかった。

結果を恐れなかったか?といえば、決してそんなことは無いんだけれど、「違う」と思ったことには「違ってる」と告げることを恐れなかった。
休みも無く働き続け休日出勤している部下達でも「手抜き」や「甘え」に気づけば、遠慮なくキツイ言葉で叱った。

多分、それは受け手である部下・後輩たちを信じていたからだと思う。

こちらの想いを捻じ曲げて受け取りはしないだろう。
曲解したり、ひねくれたりしないだろう。

という、訳もない自信・・・思い込みのような確信があった。

その結果、彼らからの信用を得ることが出来た。僕自身の「仕事をする」価値観も拡がった。人と関わることの喜びも感じた。

数年前に、当時の部下から手紙をもらった。
先に書いた「あの頃」の2年後、その元部下は会社を去り、僕との別れ方も良い形とは言えないものだった。
その彼が「あの2年間に教えてもらったことが自分の財産になっている」と言い、感謝の言葉を添えてくれていた。

こうした信頼は、あくまでも「 結果的 」に得たのだ。
むきだしだったり、無骨だったり、つたないながら僕は伝え、そして真っ直ぐ受け止めてくれた人達がいたのだ。

な! の! に!

今、「僕はいい奴だから、信じて、話していいよ」と、人に接していないか?
そんな皮を被ってないか?

あまつさえ、「いい人」「優しい人」「信頼できる人」に成ろうとしてないか?

小賢しいことは止めたい。「いい人になろう」なんて気味が悪い。

嫌われても良い、自分が信じること、譲れないものをしっかりぶつける人でいたい。

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死の恐怖

「死」がとてつもなく恐ろしかった。子供の頃から。
夜、電気を消して、布団に入るとそのまま「死」に吸い込まれそうな気がした。真っ暗の部屋は4畳半くらいなのに、そこに広がる無限の闇が怖かった。

みんなもそんな経験ない?

毎日「死」を恐れてた訳じゃない。友達と遊んでる時は遊びに熱中してたし、普通に暮らしてた。ただ、急にその恐怖は襲ってくる。一人のときに、突然に。
朝、目を覚まして、布団の中でまどろんでいる時にいきなり囚われたこともある。

今もって不思議なんだけど、幼稚園の僕に「死ぬ」ということが理解できてたのかな?
とにかく、自分が「無」になってしまう恐怖が、自意識を持ち始めたばかりの幼い僕の傍にいつもあった。

自分が生きてたこと、それすら思い返すことが出来ない恐怖。
嬉しい、楽しいはもとより、痛みも嫌な気持ちも、それを抱えていた僕自身が存在していたことも、何もかも思い出せず、感じられず、全ての知覚を奪われる。
「怖いよ」とたった今、思ってる自分がどこからも失われてしまう。思う、考えることすら出来ない。
感覚の根っこにある「自分の心」が消え去ってしまう恐怖を覚えて、僕は何度も布団の中で震えて、泣き出したい程だった。

日曜の朝、そんな感覚に襲われると幼少の僕は決まって、父の布団にもぐり込んだ。一人でいると「死」に連れ去られそうな気がした。まさにすがりつく様な思いだった。
幾度、父に「お父さんは死ぬのは怖くないのweep?」と尋ねたか知れない。

死んでも全てが失われないなら、地獄に落ちてでも毎日、苦しみと痛みを与えられ続けても良いと思ってた。とにかく、こわくてこわくて仕方なかった。

高校や大学の頃も頻度は減ったものの、それでも時に「死」の恐怖に襲われた。
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今ではまったくと言うほど、「死」の恐怖に囚われることはなくなった。自分のすべてが消滅すると思わなくなった。
魂と呼ばれるようなものはエネルギーだから、形を変えて残っていくと信じるようになった。
科学的に考えると納得できると思った。ま、僕は文系人間ですけどね。。。

念のために付け加えておくと、僕は宗教団体には属してませんし、それらの信者ではありません。
たけしちゃんと呼ばれたことは有っても、クリスチャンと呼ばれたこともありません。
いたずらに魂や霊を扱って、それで肥え太ってる輩も嫌いです。

「たった一度の人生」と考えるのも、「魂の永遠」を信じるのも人の勝手だと思います。
どっちが好きか?どっちが自分にとってより良い人生を歩ける考え方か?でしょう。

みんなはどっち?

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父の日~Father's Day~

今日は父の日です。みんなはどんな風に過ごしましたか?

突然ですが、僕は一人っ子です。
今でこそ、一人っ子なんて珍しくもなくなりましたが、僕が幼い頃は一人っ子はクラスでも年々少なくなって(ほら!或る日、急に弟や妹が出来たりするでしょ)いました。

一人っ子というと世間一般では「おかあさん子」のイメージが強いかと思いますが、僕はお父さん子でした。
自転車に乗る練習もキャッチボールの相手をしてくれたのも父でした。
風邪をひくと、すぐに高熱を出した僕を病院まで夜中に背負って走ってくれたのも父でした。
僕はいつも父が大好きだったんです。

一昨年の6月、僕は気の合う友人と上海に旅行に出掛けました。
二人とも飲んで食べるのが大好きで、気になった店を見つけては楽しく飲んで食べて過ごしました。美味しい紹興酒も見つけて、帰国したら父の日に親父と一緒に飲もうと思って買い求めました。

帰国して空港から実家に電話をすると母が「帰りに家に寄って」と言いました。

「!!」

事務的に話す母に尋常でないものを感じました。

実家に寄りました。
母が「実は15日の日にお父さんが脳梗塞で倒れて入院したの」と聞かされました。
15日と言えば、僕が日本から上海に向かった日でした。
前日から不調を覚えていた父は、母が僕に知らせようか?と聞いた時にそれを止めたそうです。

父は入院してから肺炎を併発したために、早く始めるほど良いと言われるリハビリを受けることが出来ず、左半身不随になりました。
半年が経ち、現在の制度ではそのまま入院していることができず、母は実家で父の面倒を見ることを決めました。
今は家で介護ベッドの上で毎日を過ごしています。

僕も会社が休みの時だけは実家で夕食を摂りながら父と酒を飲みます。
家で晩酌をするのは昔からの父の習慣ですが、流石に酒量は減っています。

天気の良い日は父を車椅子に乗せて近所の公園に散歩に出掛けます。
10年近く前に植えられた木々が大きく高く育っていて、湿度の高い日は緑の匂いが立ち込めています。

僕が幼稚園の年少組の時まで住んでいた近所にはxmasxmasがありました。僕のお気に入りの林です。
林の中の小路を両親と歩くのが好きでした。時には父に背負われてその路を往きました。
僕の中では、幸せの象徴のような場所です。

それを思い出させる公園で、樹々の中を車椅子を押しながら父と過ごします。
家で寝ているか、デイケアセンターに出掛ける時にちょっと外に出るだけの父には外気や、そよ風が嬉しいようです。

今日は父の日です。
父と母と3人で近所の中華料理屋に食事に行きました。

母は、愚痴ること無く、父の面倒を看ています。あっけらかんと下(しも)の世話をし、「お父さんが我侭言う時は、こっちも言いたいこと言ってるよ」と言います。
母の、当たり前にしている、揺るがない、覚悟と強さに「凄さ」を感じます。
倒れる前の父は「寝たきりになるようなことがあったら俺は死にたい」と言ってましたが、倒れてからは母に全て委ねて日々を過ごしています。

そんな二人を見て、僕は圧倒されるのです。

今、僕がすることで誰かに喜んでもらえる何か。
その「何か達」のほとんど全ては両親から与えられたものだと思い至ります。

まったく敵いません。

二人のお陰で僕は生きています。 ありがとうございます。

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ありがとう

誰かから「ありがとう」って言われたってことは、「感謝」されたってことだ。

「ありがとう」って言われる数が多いほど、人は幸せなんだって思ってた。

自分から「ありがとう」って言うのは、誰かに世話をかけたんだって思ってた。

だから、「ありがとう」を言うよりも、「ありがとう」と言われる人になりたいと思ってた。

誰かに「ありがとう」って言うのは、「あり難い」ことをしてもらったってことだ。

「あり難い」ってのは「滅多に無い」、「僥倖」ってことだ。

そうそうあることじゃない何かをいただく。  だから「ありがとう」だ。

誰もが自分に無関心だったら?  「ありがとう」を言葉にできない。

周りの人から「ありがとう」をいただく

周りの人に「ありがとう」で感謝をおくる

たくさんの「ありがとう」に囲まれ

たくさんの「ありがとう」でつつむ

そんな風に「ありがとう」が身近にあればあるほど、きっと人は幸せなんだよね。

ありがとうhappy01

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冬眠の終わり・・・お目覚め~

5月23日夜、彼らを久しぶりに冬眠から目覚めさせた。

冬の間、冷蔵庫の中で冬眠させておいた僕の大切な「 ぬか床 」のことです。

彼らヌカミソは「菌」の集団です。なんでもサイコロ程度の大きさに数億の菌があるそうです。

数年前から育て始めました。これが中々楽しいんです。

朝、出勤前に掻き回しついでにキュウリやナスを入れておきます。
夜、帰宅して掘り出す(?)と美味しい漬物に変身sign03しています。

note ポケットの中には ビスケットがひとつ note
note もう一つ叩けば  ビスケットがふたつ note 

って歌がありましたが、僕の中では、この歌に似た『魔法』を「ぬか床」に感じるんです。だって、入れておくだけで、美味しい発酵食品に変わっちゃうんですから。

一方で、「 ぬか床 」は、ほったらかしておくとカビが生えてきますcoldsweats02

で、「自分自身もそうだな~」なんて思うんです。

いつでも100%、120%の自分でいられるのがベストなんですが、怠ければ当然、自分の良さもカビてしまう。
仕事もそうですよね。調子が良いからと言って手抜きをすると、カビてきます。

自分も仕事も手をかけ目を配って、より良い状態でありたいものです。

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名脇役

子供のころ「こいつとは、ずーっと一緒にいるんだろうな」なんて友人のことを思ったこと、ありませんか?

僕はあります。

未だ過ごした人生が短い子供のころだけじゃなく、高校生や大学生の時にも、社会に出てからも「彼とはずっと友人でいるだろうな」って思ったことがあります。

でも、寂しいことに、その殆どの人たちと今では音信不通になっています。

共有できる進行形の「何か」がないと連絡を取らないという、筆まめでも、電話をまめにするタイプでもないのも原因のひとつかも知れません。今では遠くなってしまった人たちが沢山います。

昨年辺りから、新たに沢山の人たちと知り合う機会に恵まれ、中には親しくさせてもらっている人たちもいます。この人とは長くお付き合いしたいな!っていう人たちがいます。

男女の仲が「好きheart01」なだけで続けるのが難しいように、多分、そこには継続する「努力」なり「決意」「決断」が必要なのかも知れません。

「不変」なものなど無いと、どこかで友人関係が長く続くことに「あきらめ」に似た観念や、臆する気持ちがあるのかも知れません。

・・・という、自分の中に「友情」に対してネガティブになっている部分が確かにあるのですが、『だからこそsign01』と思うところもあるのです。

ドラマや小説に限らず、誰かの人生でも、僕自身の人生でも必ず「名脇役」を担ってくれる人が登場します。

主役や準主役、レギュラーメンバーではないのだけれど、あるワンシーンに登場する人。

そこで、ふと主人公が何かに気づいたり
おかした過ちに思い至ったり
悲しみを捨て去って、笑顔を取り戻したり
思い立って、行動に移したり ・・・

そんな、絶妙のタイミングに、出会い、その人でなければ果たせない何らかの役割を演じ、去っていく人。

誰もが自分の人生の主人公であるように、他の人にとっては脇役なはず。

であるならば、ひとりでも多くの人にとって「名脇役」になれる自分でいたいと思う。
自分は脇役で良いということでなく、他者にとって、そう在りたいと思う。

レギュラー陣でなくとも、
たとえ、ある一瞬だけだとしても、
その人に「何か」を手渡せる脇役でありたいと思う。

・・・何か寂しい話に聞こえちゃったかなcoldsweats01

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「人脈」と「つながり」

よく、「人脈が大事」なんてことが言われます。

まるで仕事においては極当たり前、常識であるかのように言われます。

これがどうも気にくわない。

確かにどんな仕事も「人」あってのものです。「人」不在では仕事も人生も意味の無いものになるでしょう。

でもね、「人脈が大事」と声高に言う人ほど、人脈が大事なんて思ってないんじゃないの?って感じることが多いです。

「自分の利になるか?」という観点で口にする人のなんと多いこと。相手にとって自分が役に立つという気構えもなく、『自分』が最優先みたいな人種によく見受けられます。

自分にとって利用価値が高そうだと踏めば、そんな集まりに顔を出して、売り込みに必死になる。
ちょっと名のある人と名刺交換しただけで、さも親しいかのように第三者に自慢し、吹聴する。自分自身がその高名な人物と同じレベルかのように背伸びをする。

彼らはあらかじめ「この人間は利用価値があるのか?」という視点で人を分類する。利用できないと思えばその場で終わるし、後で利用価値が出てくる(発見する)と擦り寄ってくる。
自分が利用価値で判断するなら、相手からも利用価値を基準に見られてしまう道理に気づかない。計算づくの付き合いじゃ「信頼が置けない」ことすら見えなくなっている。

「人脈」って、損得勘定とか利用価値とかを抜きにした、人として根本的な所で「人と人とのつながり」を大事にする、信用に値する人物だと思われて、初めて意味を持つのにね。

僕は信頼できる人とつながりたいし、仕事したいな。
少なくとも、誰かを利用することが前提の輩レベルには近づきたくないのです。

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経験って何だ?!

『これも貴重な経験だよ』 ・・・なんて事をよく言いますよね。

自分自身を省みても、また、他の人達をみても、かならずしも『経験』そのものが貴重だとは思わない点があります。

誰かは、その『経験』を、後に活かします。

誰かは、その『経験』をそのまま放って置いて、知らぬ間に忘れたりして後で活かすことが出来ません。

それを見ていると、『経験』そのものが貴重なのでなくて、『経験を自分のものにする』ことが大切で、その時に初めて『貴重』なものに変わるんだなって思います。

『経験』は、それだけで何かを大声で伝えてはくれません。

耳を傾けるように、「この経験のポイントは何だ?」と考えたり、そこからエッセンスを抽出したりして、初めて活用できる<ツール>になるような気がします。

じゃないと、『これも経験だよ』という言葉は、言い訳や、ただの負け惜しみになっちゃうよね。

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「見本」になる大人

過去に10数年間、車で営業していたこともあり、20~30代の多くを車通勤で過ごしていました。今から数年前に現在の職務に移ったのをきっかけに電車通勤と電車でお客様のところに伺うようになりました。

その電車を利用して10数年ぶりに動くようになって気づかされたのが、マナーの悪さです。

駅に着いた電車から降りる人を待たずに我先に乗り込もうとする人の多いこと。
また、そうした人達がドアの降車スペースを空けてくれないので、降りる人がスムーズに降りることが出来ず、尚更、降りる時間がかかってしまい、ホームの人達が待ちきれずに乗り込もうとする・・・という悪循環。

海外から日本に訪れた人達が「日本人は整列して並ぶ民族だ」と思われていた以前の日本では考えられなかったことだな。

もうひとつ、電車に乗っていて驚くのが座り方。

例えば僕が良く乗る電車の中には4人がけのシートがある。
先ずは端っこから人は座るので4人がけの両サイドから埋まるんだけど、その次に座る人がかなりの確立で真ん中2人分にまたがって座るのだ。(4人がけを左からABCDとしたらBとCのスペースにまたがるということ)

車内がガラガラならまだしも、立っている他の乗客が居てもすました顔で座っていられる図太さに驚いてしまう。angry
※良く利用する日比谷線では何故か恵比寿から乗り込んで六本木で降りる奴に多い・・・。

携帯で話している人、ドア前に陣取って人が乗ろうが降りようがお構いなしで動かない人、化粧する人、食事をする人。

よく世間で言われるような「若い人」に限らず、いい年をした年配の人間も相当数見かけます。大人の悪いマナー、とてもよく目にします。

大人がこんな調子じゃ子供たちに何を教え、伝えられるものかpoutと憤りすら感じます。
見本を示せるような大人に成りてぇな~。

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生命順位?

くじらを捕まえて殺すのはいけないと言う。

命あるものを殺すのがいけないのは当たり前だろうと思う。

でも、それはくじらに限ったことではない筈。

哺乳類だから、知能が高いから

・・・それは白人だからとか、○○大学卒というのと変わらないと思う。

痛みを感じるから、恐怖を覚えるから

・・・というなら、五感を失っていたり、障害を負った人間には尊厳は無いのだろうか?

牛や豚は?

「彼らはその為に『生産』されているのだから別問題」と大真面目に唱える人も居るそうだが、本気だろうか。

人の作ったカテゴリーに当てはめた「自分たちの価値観」に基づくだけの偏見に思える。

生命を差別しているだけのように聞こえる。

人間は様々な生命を殺して、食して、生きているのだ。

人間は、動物taurusや魚fish、植物bud、それらの生命を頂いて生きているのだ。

くじらやイルカを保護することだけで「やさしい生命体」になれるほど、人間の持つ罪や業は甘くは無いだろう。

どう思いますか?

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