灯り
『 自灯明・法灯明 』という仏陀の言葉があります。
僕の好きな言葉です。
僕は宗教に属していませんし、宗教学を学んだこともありません。
この『 自灯明・法灯明 』は今から20年以上前に、NHK大河ドラマ「伊達政宗」で初めて耳にした言葉でした。
幼くして片目の視力を失った正宗に、大滝秀治さんが演じる寺の住職が話す場面でした。
「人は人生という暗い夜道において、自らを灯明として歩いていくのだ。
しかし、もしも自分の灯りが未だ弱く、道を照らせないのであれば、
その時はお釈迦様の教えである『法』を灯明として、歩いていけば良い。」
というような台詞でした。
僕には忘れられない言葉になりました。
仏教という世界三大宗教においても、行き着く先は仏教そのものの教えが最重要ではなく、自らを灯明として一人ひとりが自分の足で歩くことを求めたのだ、と感じたのです。
一言一句そのままでは無かったと思いますし、ドラマの上で住職が「方便」として話した言葉なので、本来の仏陀が意味したことと違うかも知れません。
テレビから不意に飛び込んできた台詞ですから、その後の20年間で僕の好きなように解釈がなされてしまっているかも知れません。
自分なりの指針が無いならば、「法」を道標として歩いていく。
自分の羅針盤が明らかになってきたら、それを軸に歩を進める。
「自由」は、自らに由(よ)ると書きます。
情報化社会の中では、何か新しいことをやろう!とすると幾らでも関連する情報を手にすることが出来る。
ネットでも書籍でも、時間や労力をかけずに触れることが出来る。
自分にとって未知のこと、初めてのことも、前もって指針を得ることが出来る。
その情報は「玉石混交」かも知れないが、その気になりさえすれば、数ある中から「法」を選び取ることが出来る。
「他由」なんて言葉は無いでしょうが、他者に由って始めることが、より手軽に、可能となっている。
去年、今年と、法を灯明として過ごしてきたように思います。
その灯りが、僕の中の蝋燭の灯りを、より周囲を照らせるものに育ててくれたものと感じます。巡り合わせ、出会いの妙に感謝です。
そして、「法」には謙虚に向かい合うことが大切なんだと思います。素晴しい「法」であればある程、依存したり委ねてしまうだけのパワーや輝きがあるからこそ、謙虚に受け止める姿勢が必要だと感じます。
(変な言い回しになってしまいましたが・・・伝わる?)
ここらで再度、自分の源泉と、照らし出せるものを確認してみます。
『 自灯明 』を頼りとして歩くために。
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